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我孫子にて

2022年11月26日天候曇り。いつものように日記として記そうと思っていたのだが、今日はだらだらとながく書きそうだなというのときっといつかこの文章もネットに上げている以上消えてしまうのだから他と判別しやすいように見出しも変えて自身読み返してもいいように記そうとそう考えたわけだ。前置きを引き延ばしても仕方がないからこの辺にしていつものように時系列にけれど寄り道して文章を紡ぐことにしようと思う。

10時半起床。本当は不燃ゴミの回収の日であったから8時には起きようと思っていたがどうにも布団からでることが億劫で気付けば2時間以上予定よりも遅く起きていた。手短に身支度を整え、我孫子へと向かう。(うっかり家を出るまでにサイエンスゼロという番組で男女の中性化が身体レベルで起こっているという話をしていて面白く見てしまったため出発がだいぶ遅くなってしまったが)


日暮里駅常磐線のホーム。この時点でどこか物悲しい。


日暮里から常磐線に乗り我孫子へ行く。常磐線の終点付近で育った私には懐かしい車両に乗って我孫子駅へと向かった。


田舎に行くと偶に見る謎の竹灯籠

我孫子駅は随分古い駅舎のようで所々歴史を感じさせる風合いであった。こういうと怒る方がいるかもしれないが、要するにいい具合にボロかった。ホームには謎の竹灯篭と生花が展示しており、こりゃまた渋い場所にきたものだと感じずにはいられなかった。

案内板の横にあった碑


駅舎を出るとロータリーがあり、その手前、案内板の脇に我孫子ゆかりの文化人を紹介する碑があり読んでみる。白樺派の連中が我孫子にていたことは知っていたが柳田國男の実家が我孫子にあることは知らなかった。我孫子の自然は近代の文化人に様々な影響を与えていたのだなと浅い感想を抱く。

駅からほど近い洋食屋。ぐるなびに載ってた。

ばたばた家を出たもので食事をとっていなかったので、行きの電車内であたりをつけた『コ・ビアン』という洋食屋に行った。近くに2号店もあったが、初めてだし、というわけで訪れたのは上の写真の本店だ。内装は洋館チックで二つの大きなステンドグラスと壁にかけられた頭だけの鹿の剥製が印象に残っている。一見して敷居の高い店に見えないこともなかったが、地元の人々がジャージなどの身軽な服を着て食事をしており好ましく思った。値段も高くて千円と少しといったところで良心的だ。私は日替わりを彼女はハンバーグ定食を頼んだ。

日本の洋食といった風合い。柴漬けがアクセントになって良い。


日替わり定食はなんとも豪勢なものでカキフライ、ハンバーグ、チキンステーキがついていた。味付けは日本人の舌に合いやすいようにどこかほんのり甘く、付け合わせには柴漬け、スープをお味噌汁という好きのない配置だった。田舎にいた頃はこうした料理を前にすると実に垢抜けないものだなと感じていたが今ではこうした食事こそ心を満たすものだと考えをあらためている。
時間もないのに食後のコーヒーまで付け足してしまった。その時点でもうじっくりと見て回るのは諦め、白樺文学館だけは見に行こうと決めた。

駅から手賀沼までいったんおり、道なりに歩く。

木の電柱。


我孫子の空は広い。日暮里から快速で30分程であるのに背の高い建物はなく、民家やアパートなどの住宅ばかりで高層マンションもなく道端やコンビニの駐車場も広い。人がいないタイミングを見計らってマスクを外すと懐かしい冬の匂いがした。どこか湿った冷たい土の匂いだ。
今私の住む家も都心とは呼べない場所だが、それよりも自然の匂いが強い。いいところだなとすぐに思えた。
実のところあまり千葉という土地に良い印象を思っていなかったので着いてすぐに親しみを覚えたことは意外だった。どこか千葉県というところは陰気なところであるという偏見を持っていた。(個人の意見です。決して千葉を悪く言うつもりは毛頭ありません。なぜか千葉に行くときは曇りばかりのもので)
しかし、我孫子という土地は何だか少し物悲しいが温かい場所であるように私には思われた。古い日本家屋が多く、民家しかない住宅地にぽつりと軒先で婆さんが煎餅屋を営んでいたりする。少し歩けば寺などがあり、木々も多い。
久しぶりに木の電柱も見た。どこか温かく感じるのは懐かしさを覚える光景だからなのだろうか。私は過去の記憶を辿るように歩をすすめた。

白樺文学館までの案内版。何もない場所であるので案内板すら気づきにくい。

白樺文学館の外装を撮り忘れたので代わりに案内板を載せておく。外観は興味があれば調べるか、この案内板から察してほしい。
マンションの影になっており、日もあまり当たらなそうな場所に白樺文学館はあった。
何ともまあ侘しいものだ。訪れてみると客は私たちだけで展示物も少ない。現在は志賀邸に集った画家たちの作品を展示しているということであまり知らない画家の絵を眺めたり、白樺派のだれだったかが購入したロダンの落選作を見たりした。太宰の桜桃忌のように死後も讃えられることを嫌った志賀の功績を伝える場所としては実にらしい装いの場所であったように思う。
案内してくださった学芸員さんが暇であったのか色々話してくださって学芸員さんの過去から(なぜそんな個人的なことを……)最近はゲームで志賀直哉がキャラクター化されておりそれの聖地巡礼の意味合いで来る若い方もいるとのこと。中々に小さな館であるから何かと大変なこともあるかもしれないが、SNSなど努力しているようで頭が下がる。私自身文学など露ほども興味のない青年であったからそうしたアニメやゲームなど若者文化から文学に対して興味を抱く同年代や下の世代がいることは喜ばしいことだと感じた。まず知ってもらわねばその良さを知るものはいなくなってしまう。どんかことでもそうだが、門戸は開かれていなければいけない。そうでないと廃れるのみだ。それもまた悪いことではないのだが……。

直筆の原稿が一点だけありそれを読むと志賀が書斎について書いたものだった。色々思ったが、末尾で志賀がストーブを使うことについて文明の利器にばかり頼るのは如何なものかという意見があるがそうしたものはいい加減飽き飽きした(うろ覚えなので厳密な文章ではないが文意はこのようなものとして考えてほしい)と書いている。
生原稿では飽き飽きという文字の前に何やら書き直した跡があり、まずい言葉を書いて消したような気がした。それか表現として弱かったので書き直したか。どちらにせよ、後に太宰から老大家とさえ言われた志賀が古い保守的な意見に対して飽き飽きしたと迷った末に書いているというのは面白いことだと感じた。彼は当時として保守的な考えを尊重しつつ、新しい考えに理解を示さない者を面倒だと感じていたのだろう。いつの時代も古きは疎まれるものだ。まだまだ勉強不足で詳しく知らないが、志賀と太宰の喧嘩もきっと本心からどちらとも喧嘩していたわけでなくどこか喧嘩自体を楽しんでいる風であったのではないだろうか。まあ、そんなこと本人達ももう死んでいるし知る術もないのだが、実にそうしたあれやこれやが人間味があり私は読んでいて楽しくなってしまう。生原稿の書き直しの跡などを見ると書いて直しという思考の足跡が見えて本でしか読んでいなかった作家がちゃんと生きていたのだなと実感できる機会となった。その文章がちゃんとした作品ではなく、軽いノリで書いたようなそういう文章であったことも私に親しみを覚えさせた。

記念に志賀の文庫を数冊買い、学芸員にしてよく喋る親しみやすい太っちょのお兄さんに別れを告げ文学館からほど近い志賀直哉邸跡へ。

志賀直哉邸跡とあるが、この建物は書斎であるとのこと。


残っているのは書斎のみとのことで縁側に座ってみる。きっと当時はあたりに建物などもほとんどなくずっと静かな場所だったのだろう。この静かな場所で志賀は全く書けなかった沈黙の3年間を抜け出し、父との不和という長年の彼の命題を『和解』という小説で描き、作家としての集大成である『暗夜行路』の執筆へと取り掛かった。我孫子という土地が志賀に与えた影響は計り知れないだろう。それだけの静かな、しかし誠実な魅力が我孫子という土地にあったのだと私は思う。

志賀直哉邸跡の入り口に蜘蛛の糸に吊るされた一枚の枯れ葉があった。

芥川龍之介はどのような想いで志賀邸を訪れたのであろう。

この枯葉を見て、すぐに芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を想起した。芥川は度々我孫子の志賀邸を訪れては志賀が三年間ほど小説を書かなかった時代のことをしきりに訊きたがったそうだが、どのような思いで志賀邸を訪れていたのだろうか。当時書きあぐねていた芥川はまさに蜘蛛の糸にでも縋るような想いで志賀邸を訪れていたのではないだろうか、いや書かなくて良い理由を求めて志賀の元を訪れていたのかもしれない。芥川が蜘蛛の糸で描いたように自分を地獄へと落としてくれる存在を探して。志賀のような自分と違い友にも財力にも文才にも恵まれた存在が自分に引導を渡してやくれないかと……。それは私の勝手な妄想だけれど、芥川と志賀の関係というものは私自身の創作の根幹にもなっているもののように今回の訪問で感じた。

それから私たちは手賀沼へ向かった。幹線道路に沿うようにして歩いていると周りの風景と同化しないお洒落な店があった。

小賢しくない店名、品の良い均一本が目を惹く。

寄り道好きの私たちはすぐに均一本を漁り始めた。とても均一本とは思えない良い状態の良書が並んでいた。カズオイシグロ、チェーホフなどの文芸作品から哲学書まで幅広く小綺麗に陳列されている。こ」は中も良いに違いないと入店すると、レコードや洋書も扱っており、店内の大半は飲食スペースとなっていた。数冊買って、お茶にすることとして私はブランド、彼女は紅茶を頼む。飲食もかなりこだわっているようで、コーヒーだけでも幾つか種類があった。(私はそうしたものには疎いので無難にブランドを頼んだが)
次に来た際は食事もしたいと思った。店内に飾られているポスターはジム・ジャームッシュのコーヒー&シガレットであったり、ボブディランのコンサートとのものや、ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブのアルバムの表紙であったりとても趣味が良い。ご亭主は自分なんかよりもとても文化的なものに造詣の深いことがよくわかるセンスの店であった。店内の内装もかかる音楽も食事もこだわりが感じられ大変有意義な時間が過ごせた。こういう店が近所にあったら良いのにと彼女はしきりに言っていた。

そして手賀沼へ。
我孫子の淋しさのいや、静けさの象徴のような場所だった。対岸の工場だろうか、青白い光が水面を照らしていた。何度か絵で見たことはあるが実物を見たのは初めてであった。この場所に佇む静けさを何とか掴み取ろうと画家達が描いた理由がわかるような気がした。私の拙い記憶力で思い返してみれば絵で描かれた手賀沼はどこか明るすぎるように感じていた。あたたかすぎると言ってもいいかもしれない。
きっとそれはこの静かな場所が決して寂しい場所ではないのだと画家達は言いたかったのかもしれない。

人のいないベンチ。塀がないのですぐにでも手賀沼に飛び込むことができる。


他にもあれやこれやあったのだが、私の手賀沼訪問記はこれまでとする。理由は明日仕事が朝早いということと、書き疲れたということだ。これを私はスマートフォンで書いているが親指が痺れてきている。
しかし、大概の私の感傷はもう書き切れているようにも思う。私は私の知らぬところで志賀直哉という人間に影響を受けていた。この手賀沼に対する懐かしさもきっと志賀の作品を読んで受けた何某かからくるものなのだろう。それが私にとってはちっとも嫌な感じがしない。偉ぶらない、しかしぶっきらぼうな志賀が親しみを覚えた我孫子という土地は、きっとそうした不器用な人間を受け入れてくれる素養のある土地なのではないだろうか。いずれ機会があれば、ここまで読むような人間は訪れても損はないと私は思うけれど、それはまた私の知るところではない。

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