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鬱憤晴文学を読む

中国語では読書家のことを「書迷」(シューミー)と言うらしい。ニュアンス的には本をむさぼり読む人、という感じだ。
私は書迷の域に達してはいないが、読書は好きだ。それも、数冊の本を同時に読み進める、名付けて、同時多発読みをしちゃうタイプの人だ。

今はざっと4冊くらいを並行して読み進めているが、同時多発読みをしていてよかったこと?面白いこと?があったのでここに記録しておこうと思う。

卒論では埴谷雄高について書こうと思っているため、最近戦後派文学に触れておきたいという理由から、野間宏『暗い絵』を読んだ。
特に期待はしていなかった(失礼!)が、案外面白く読むことができて良かった。戦後派の文学というのは敗戦を経験した世代によって書かれているわけで、当時の世相や時代背景によって形成された精神性が色濃く反映される。果たして現代人の私が読んでも、内容を「分かる」ことができるのかと正直気がかりだったのだ。

この本の大まかな内容は、左翼学生たちが警察の取り締まりを掻い潜りながら運動に参加するが、結局獄死するというものだ。
これだけ聞いたら、あまりにも遠い「ある時代」、「過ぎ去った時代」、という感じがするのも無理もないと思う。
しかも、題名にもある通り、この小説は暗い。終始灰色のもやが覆っているような陰鬱さが立ち込める。そして読後、いや〜な感じがしばらく後を引く。

しかし、先ほど意外に面白く読めた、と言ったのは、学生たちの緻密な心理描写にある。例えば、金儲けをする大人への主人公の嫌悪感が、新感覚派を思わせるような視覚的な描き方で絶妙に捉えられているところなど。
それは、金貸し親父の大きな鼻。主人公はずっと「鼻奴、鼻奴」とつぶやいては親父の鼻に帯びる嫌悪感に囚われる。
そして自己への絶え間ない探究、未来への不安、不安定な精神、怒りっぽいところ、絡まった思考によって感傷的になってしまうところ…などが描かれており、そこら辺はあまり時代性を感じずに読むことができると思った。

主人公深見の独白を引用しよう。

「深見は…死の問題の所まで来て、自己の消滅を承認することは出来ないと考えるのである。自分以外の存在がそこにありしかも自分の姿はそこにはないということ、これは耐え難いことではないか。…この俺の足はなくなる。この手はなくなる。宇宙焜炉の火の中でねえ。安物の七輪、宇宙カンテキの中でねえ。」

野間宏『暗い絵』

「深見進介は、何者かに成ろうということを考えているのであった。…日本人は、いや日本の学生達はあまりにも生命を粗末にする。あまりにも自己を保持しない。…ああ、この成るということはたしかに辛い悲しみに取りまかれた、持続を要する操作である。…彼の自我はトラックの車輪の下の蛙のように、小さい痙攣を残して闇の中に消え去らねばばらない。深見進介は時代というものをそういう風に考える。」

同上

ここら辺の自我の問題、国家という存在が大きかった当時の時代背景が色濃く反映されている箇所であることは確かだが、現在にも通じるものではないか。少なからず私はそう思うし、ここらへんに私の問題意識の軸があるような気がする。

誰かが、物語に出てくる主人公は基本、「突っ走るバカ」か「うだうだ行動しないやつ」の二択だと言っていて、私はなるほどと納得したことがある。
これに当てはめて考えてみれば、主人公深見は後者にあたるだろう。
仲間の左翼学生は命の危険を晒してまで活動を行い、最後には皆獄死を遂げるのだが、彼はどうも仲間の行動に納得できずに獄死は免れる。彼らの死に打ちひしがれながらも何かが違う、そうじゃないんだ、と考え続けていく。



時を同じくして、私は石井尚史『<同志達>前史』を読んでいた。彼は作家ではないため、普段はお目にかかれない小説であると思う。この短編は1968年周辺(激動の時代!)の、名も無き若者たちの文芸を集めて編纂された、四方田犬彦/福間健二『1968 [2] 文学』の中で紹介されているものだ。

内容としては、当時の駒場高校の学生がバリケードを作って立て篭もるまでの話。作者の学生時代の実体験に基づいて描かれている。
今まで「学生闘争」という出来事を単なる歴史上の出来事として捉えがちであった私は、いまいち闘争へと駆り立てられる学生の動機が腑に落ちないでいた。しかし、小説では彼らの具体的かつプライベートな心情の部分に重きが置かれていたおかげで(それが文学の役割だと思っているけれど)、当時の学生の思考や心情が手に取るように分かった。
例えば、彼らはやってやるぞ!と闘志を燃やしているかと思うと、活動が大学受験のための内申点にひびくことを心配してみたり、「あれ、自分たちがしていることって意味あるのかな、俺何してんだろ」っていう皆さんご存知のあれが襲ってきたりする。
へえ、こんなこと考えていたんだなあと思うと同時に、彼らはやっぱりただの高校生なんだな!と思ったりもした。





この二つの小説に共通するものは何か。
それは若者による体制への反抗だろう。
左翼活動と学生闘争と、それぞれ政治的な運動であることから、私はてっきり彼らは立派な政治理論や明確な主張があって、それを実践に移しているのだと、ちょっぴりひいき目にみていたところがあった。確かに世相の影響もあり、今の学生よりもそういうことに対しての関心は大きかったのかもしれないが、小説で描かれている学生である彼らの繊細で不安定な心の内を追っていくうちに、実はぼんやりとした怒りや不安や焦燥感などの得体の知れない感情の解放先として政治活動があった、と捉えることもできるのではないかと思った。
数年前に大学の授業で見た安保の映画を思い出した。当時闘争に参加していた人がインタビューで、
「私も運動に参加していたけど、はっきり言ってなんだかよくわかっていなかったですよ、うふふ」
てな感じに答えていて、何やねん!と思ったけど、やはり「解放の祭り」や「鬱憤バラシ」みたいな側面もあったのだろう。

さて、現代はどうだろう?
二つの小説に取り上げられている、左翼活動と学生闘争を「解放の祭り」として考えてみた時、現代にはそうやって若者が集団で集まって何らかの主張を声高々に掲げる機会がほとんどないように思える。
だからちょっぴり、いや、結構当時の学生が羨ましい。
なんかむしゃくしゃするから、矛先を家や国家に定め、反抗する。それが大人に笑われようが、後に意義を問われて一蹴されようが、彼らには関係ない。なぜなら当時「解放の祭り」に参加したという経験自体が今の彼らを作っているのだろうし、一回全力で憂さ晴らしをした方が案外社会にすんなり溶け込めるのかもしれないと思うからだ。

私は反抗期が変に拗れてしまったがために、何か消化不良のような煮え切らなさが常にある。
それは時代のせいなのだろうか?私の小心者の性質のせいなのだろうか?



自分を騙すことだけはしたくないのだが、なんか良い方法はないものかなあ。



以上、同時多発読みという謎習慣がたまたま私に与えてくれた気づきの紹介でした。笑



長々と読んでくれてありがとうございます!





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