他者のいない小説

小説と言えるほどのものでもないけれど、先月原稿用紙30枚くらいの短編を書いた。
私の見たもの、聞いたもの、感じたもの、考えたことの断片がガタガタの糸で継ぎ接ぎに縫われているような話になった。
かなり独りよがりでうだうだしていて、出来は悪い。
でも、完成したら何だかすっきりした気持ちになった。

小説の教室に提出し、ざっと15人くらいの生徒たちに批評をもらう。
緊張する私を囲むのは、綺麗なまつ毛がくるんとカールされた婦人、マンションの自治会会長を務めるおじさま、フリーターの二十歳、頬骨の赤い会社員の男性、ベレー帽の似合うおばあ様、そして毎回志賀直哉『城崎にて』をすすめてくる講師のおじいちゃん先生……。
実は生徒の大半は私の倍以上を生きている大先輩なのだ。
そんなみなさまにすごいすごい、と好評をいただく。

「あなたはこんな観念的な作品を書くんですねえ、びっくりだ」
と先生が私を見つめて目を丸くした。私はこれまでただ笑っている明るい子娘、という印象を抱かれていたらしい。
私は作品内の一人称を「僕」にした。頭でっかちでぐるぐる考えてばかりいる主人公は女よりも男の設定の方がしっくりすると思ったし、男性の生徒の方も私の描く「僕」に違和感は無いと言っていた。
「♪ヘイ ボーイは不安定♪ ヘイ ガールはいつも元気♪」って坂本さんも言っている。それに、孤高を最大の美徳とするニーチェのナルシシズムは男性的だ。『死霊』に出てくる、現実的でおしゃべりな津田夫人と対照的な男たちは空想・観念・哲学的な議論にひたすら勤しむ。
私は女だけど、男性的なそういう傾向は自分の心に共鳴する。

そういう、思考における男性・女性の性質は自分の密かな研究対象なんだけれど、それは置いておいて、
ひとまず観念的なことを小説に落とし込んだ場合、そこにはただ狭っこい、私一人の世界が表出するに過ぎない。
そこが今回私の書いた作品の、決定的な欠点である。
主人公「僕」が見たり、考えたりしていることがひたすら独白のような形をとって綴られていく、一辺倒な内容。分かりやすく言えば、恋愛や友情などと呼べる、他者との関わり合いがそこには一切無い。
生徒の数多くの人が、私の作品における「他者の不在」を批判として指摘した。

それを聞いた私、途端におっと、大ダメージ。
実は自分でもそれはよく分かっていた。
書いていた時、試みても他者がどうしても描けなかったこと、描けたとしてもわざとらしくってどこかよそよそしい人物にしかならないこと、苦いほど分かっていた。
「まあまだ若いから焦らずに人生経験を積んでいけば良いですよ」
先生はそうにこやかに優しいことを言った。
笑ってたけれど、私は笑えないぜ。
なぜなら自分にとってそれはまさに、シリアス・イシュー!だから。

小説の主人公は、「僕」だけど、それはほぼ私の分身なのであり、その私は他者が書けない。私は、ミランクンデラ『存在の耐えられない軽さ』の表紙の白黒の男女のように、誰かと境界線を溶かし合うようになるまで関わったことなんてほとんどない。私は他者と正面から向き合うのに怖気付く。いつもうつむいて、歪な笑顔を作って、黙ってしまう。本当に伝えたいことはお腹の底に沈んでいってしまう。
気づけば私は当たり障りのない無味無臭の酸素になって、他者に鼻から吸って吐いてもらうようになっていることが多い。
本当は、私は他者に対して、空気なんかじゃなくて、頑固で厄介な個体として、それは石のようにちょっとやそっとでは動かせないものでありたいのに。
ならば、私から他者をきちんと認識することを始めなければいけないような気がする。私は他者ともっと本気で関わりたい。

そこで手始めというのもアレだが、今まで行かなかった小説の教室の二次会(サイゼリアでランチ)に顔を出してみた。店内の席に座って一息ついた途端、私を囲む生徒たちの、「さあ、この子娘は何を話すのだろうか。聞いてやろう。」
と言わんばかりの、期待に満ちた熱い視線を感じて、圧倒された。私の言葉を待っているということがあまりにも明らかだった。私は怖気付きながら、それでも嬉しく、必死にあれこれと発言した。


世間話を軽蔑していた、厨二病感満載の頃の時代は最近まであったけれど、今はそれより少しだけ社交的になっていることを祈る。
会話を作るのも、他者と関わる上で大切なことだと思うので、できるようになりたいものだ。



次は他者のいる小説を書いてやろう。




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