ミジンコとの出会い|制作中の作品【3】

「で、どうだ?」という蘭堂の呼びかけで我に返ったものの、私は相変わらずどう応えていいかわからなかった。ミジンコの神話を創るのを手伝えと言われても、私は何をすればいいのだ?

「ミジンコの神話を創りたいから手伝ってくれということか?」

私は当たり前のことを言う。蘭堂の言葉を繰り返しただけである。もう少し話を聞かないことには、どう対応していいのかもわからない。

蘭堂はうなずきなから、「話を聞いてくれるだけでいい」と言った。

話を聞くだけであれば、私にもできるだろう。しかし、本当にそれだけであろうか。

欄堂司という名前をつけたためか、私は疑心暗鬼になっていた。いや、実際は逆で、疑心暗鬼になったために、私は欄堂司という名前をつけたのかもしれない。いや、これもいま書いている途中に考えたことで、蘭堂と向かい合って話をしているときには考えていない。

私が戸惑っていると感じたのか、蘭堂は「いきなり、すまん」と謝った。

「相談があるといって、ミジンコの神話を創りたいから話を聞いてくれと言われても困るよな。ただ、キミに聞いてもらうのが一番いいかと思ってね」

「もう少し詳しく説明してくれないか?」

私は少し落ち着きを取り戻し、蘭堂に話を促した。彼は「まだまとまっていないからうまく話せるかどうかわからないけど――、」と独り言のようにつぶやいてから、「――なぜミジンコの神話を創りたいと思ったのか、ということから、かな?」と言った。

蘭堂も私もどちらかといえば無口な方である。大人数のときは当然、少人数のグループで集まっていても、私は、そして蘭堂も、聞き役に回ることが多く、話の中心にいることは少なかった。しかし、人と話をすることが嫌いというわけではなく、少なくとも私の方は、誰かの話を聞いていることのほうが、楽しくもあり、楽でもあった。

いざ話そうとすると、面白く話すにはどうしたらいいかとか、こんな話題を振って何の役に立つのだろうかとか、いろいろと考えながら話をしようとしてしまうので、タイミングというか会話の流れというか、そうしたものを止めるまではいかないまでもズラしてしまう傾向がある。ズレたときには、そのズレを補うのにどうしたらいいかと考えごとが増えてますますズレる。余計なことをいろいろと考えてしまうのだ。

こうなると話すよりは聞く方が楽だと思えて、高校生の頃からだろうか、あまり話さなくなった。しかし、大学のゼミやレポート、また就職して社会人になってくると、自分の意見や主張も出していかなければならなくなり、選んだことが、ブログを書いていくということだった。話すことを実践することが一番の練習になるとは思いながらも、仕事でもメールや報告書などの文章を書く機会も多くあったし、練習の相手となるような親しい友人知人もいなかったので、自分が興味関心のあることや思ったこと考えたことを伝えられるように練習しようとブログを書いていた。投稿頻度が多いときも少ないときもあるが、いまもまだ続けている。現在は滞りがちである。

一方、蘭堂の方は、性格的には私と似たようなものでありながら、選択的には違っていた。彼は聞くことを磨こうとしたようである。社会人になり、仕事などをするなかで、もっと人の話が聞けていれば、建前ではなく本音を感じることができていれば、思いを汲み取ることができていれば、と感じることが増え、どのように話を聞けばいいのかと考え、聞くことを磨くセミナーに通うようになった。そして、そこで「ミジンコ」に出会い、興味を持ちはじめたという。

「月イチくらいで参加してはじめたんだけど、通いはじめてから半年くらいたってからかな。『ミジンコ』が流行ったんだ。『ミジンコ』が流行ったといっても、プランクトンのミジンコを飼ったりすることが流行ったわけではなく、『ミジンコ』という言葉が流行ったんだ。『ミジンコ』が流行語になったんだよ」

私は、蘭堂と二人で無駄話をしていた学生時代を思い出していた。

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