ミジンコ跳ねる|制作中の作品【4】

「ミジンコが流行?」

「うん。簡単にいうと、セミナーの中では『直感』を大事にしていて、『直感』のことを『ミジンコ』って呼びはじめたんだ」

蘭堂の話では、「聞く」ことを磨くことは自分の「内なる声」を聞くことを磨くことにもつながるということだった。直感は「内なる声」のようなもので、瞬間的にやってきてすぐに消えてしまう。その「内なる声」をつかめるかどうか。聞くというのは、他人の話を聞くだけでなく、自分自身の声、まだ発せられていない声を聞くことだという。

そして、その「直感」あるいは「内なる声」のことを、仲間内で『ミジンコ』と呼びはじめたらしい。そして「内なる声」が聞こえたとき、直感したときに「ミジンコ跳ねた!」とか「ミジンコ跳んだ!」と言っていた。

「周りから、『ミジンコ跳んだ!』とか、頻繁に聞こえてくるんだ。最初のうちはおもしろがって聞いていたけど、そのうち、なんで『ミジンコ』なんだろうと思うようになってね」

『直感』のことを『ミジンコ』と呼ぶ。表現としてはおもしろい。インパクトがある。なんとなく親しみも感じる。しかし、そこに理由を求めてしまっては駄目な気がする。たとえて言うならば、一発ギャグに「それ、どんな意味?」と聞いてしまうようなものである。

私も蘭堂と同じように「なぜ『直感』が『ミジンコ』なのか?」と疑問を持ったが、口には出さなかった。

「もちろん、確固たる理由があって『ミジンコ』と言っているわけではないだろうということはわかっているんだけど、なぜだろうと思いはじめたら気になって仕方がない。気になりはじめたらいろいろと考えてしまってね。話を聞くときには考えないことが大切なんだけど――」

蘭堂は、声のトーンを少し落としながら続けた。

「――だから、考えずに聞いてほしいんだ。考えないということが難しいとはわかっているんだけど。ただ聞いてほしいだけだと言ったのはそういう意味だ。学生時代にどうでもいいようなことを一緒に話していたように」

私と蘭堂はお互い無口な方であったが、二人のときはよく話をした。どちらかが話をしなければ沈黙が続くことになるので話をしていたと思っていたのだが、案外話しやすかったという理由もあったのかもしれない。まだよくわからない話ではあるが、蘭堂は普通に話をしている。

「まあそんなわけで、なぜ『直感』のことを『ミジンコ』というのか気になるにもかかわらず、大っぴらには人に聞けない。聞いたとしても、なんとなくおもしろいからというような答えで、ボクが納得できるような説明があるわけでもない」

蘭堂の語気が少し荒くなりはじめた。私はコーヒーを一口飲んだ。勢いづかれてはこちらが疲れる。いまは蘭堂の話を理解することにエネルギーを使っているのだ。

蘭堂もつられて、一息入れた。そして話を続ける。

「ところで、ボクが納得できるような答えとはどんなものだろうか。それはボクにしかわからない。だからボクは自分で答えを見つけようと思った。『直感』のことを『ミジンコ』というのは比喩みたいなものだろう。どこかしら『直感』と『ミジンコ』に共通点とか似たようなことがないだろうか」

そうして時間があるときに、蘭堂は『直感』や『ミジンコ』のことについてネットや本で調べはじめた。調べていくうちに、『直感』や『ミジンコ』について知らないことがたくさんあったことに気がつき、さらに調べていくうちにわからないことも、そして『直感』や『ミジンコ』に対する興味関心も、どんどんと増えていったらしい。

「いま思うと、『直感』にあこがれていたように思うんだ。ボクは、これまでの長いとも短いとも言えない人生経験のなかで、ボクがイメージしているような『直感』というものに出会ったことがないんだ。ピンときたとか、インスピレーションとか、いろいろと言い方はあるかもしれないけど、そんな経験がボクにはない。もちろん気がついていないだけかもしれないけれど。よく言うじゃないか。雪の冷たさを認識するのには雪にさわってみることだって。口で説明されたり、本を読んだりしても、なんとなくはわかるけれど、はっきりとはわからない。『直感』についても同じように感じる。経験したことがないのに、調べてもよくわからない」

ミジンコの神話から話がズレているようにと思えたが、私は口には出さなかった。

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