形式と意味|制作中の作品【12】

 ミジンコはコイから逃げる。そこから、恋から逃げるダフネを連想して、ミジンコの学名をダフニアとした。これが蘭堂の仮説である。

 そんなことは、ない。

 第一、学名は基本ラテン語だったはずなので、日本語である「コイ」(恋、鯉)など連想するはずはない。

 私が思わずそう反論すると、蘭堂は「そんなことはわかっているよ」と笑った。「ハイ・クオリティの冗談だよ。冗談。そうムキになるな。キミがなんだか少し緊張してたようだからさ」

 たしかに、話をしっかり聞かなければと固くなっていたところはある。しかし、どこがハイ・クオリティだ。
「恋愛の恋と魚のコイ。単なる言葉遊びじゃないか」
私はそう反論する。

 すると蘭堂は、そうだよ言葉遊びだよ、と笑った。そして、ただ言葉遊びも莫迦にはできないよ、と言った。
「ダフネの物語も元々は言葉遊びだった可能性が高い。ダフネは月桂樹という意味だろう?」
 ギリシア語では、ダフネじゃなく、ダプネーだったか、とつぶやきながら蘭堂は続ける。
「たとえば、お祖父ちゃんとお孫さんがいて、お孫さんがおじいちゃんに尋ねるんだよ。『お祖父ちゃん、なんでアポロンのおじさんは月桂樹を身につけてるの?』とかなんとか。尋ねられたお祖父ちゃんは『それはね……』とか言って、アポロンとダフネの物語を語りはじめる。ひょっとしたらこんなやりとりから、アポロンとダフネの物語は広まっていったんじゃないかなんて想像するんだ。とっさに創った物語がやがて神話に組み込まれて、神話の一部になっていったんじゃないかって」

 たしかにその可能性は否定できない。確かめようもないことでもある。ダフネ、古典ギリシア語のダプネーは月桂樹を指す言葉であり、月桂樹をいわば擬人化するようにして、ダプネーという名前の精霊を創り出し、ダプネーとアポロンの物語が作られた。このように考えてもおかしなところはない。この場合は言葉遊びとはいえないかもしれないけれど。

 月桂樹は常緑樹で、太陽の光を浴びて、光を求めて、枝を伸ばし葉を広げ、新緑に輝く。だからかどうかはわからないが、月桂樹は太陽神であるアポロンの樹と言われていた。そこに、月桂樹がなぜアポロンの樹なのかと疑問を持った人が現れ、その疑問に答えるように物語が作られた。このときの物語は、なぜという疑問に対する答えであり、その理由であり説明でもある。

 神話は、自然現象や習慣、慣習などの説明体系とも解することができる。天照大御神が隠れた天の岩戸の話は、日食を目の当たりにしたところから作られた物語であるとよく言われているし、大きな神話であればたいてい天地創造の話がある。世界創造と比べると規模は小さくなるが、ダプネーの物語は、アポロンと月桂樹の結びつきであるとか、月桂樹の性質とか性格とかを説明した物語でもある。

 こんなことを考えていると、蘭堂が、なんだか逆だなあ、とつぶやいた。

「逆?って、何が?」
「いや、ちょっとうまく言えないかもしれないけれど、ボクがさっき話したミジンコの話は、なぜミジンコにダフニアという名前をつけたのかという話だったけど、ダフネの話は――、うーん、うまく言えないな。ボクの話はミジンコがダフニアという名前になったという話だったけど、ダフネの話はダフネという名前は変わっていなくって、月桂樹から精霊が生まれたというのかな。ボクの話はミジンコそのものは変身していなくて、ダフニアという別名がついた話。一方、ダフネの話は変身している。ギリシア神話上は精霊から月桂樹に変身しているし、仮に神話が創られたものだとすると、月桂樹から精霊が生み出されている。そんな感じだ」

 よくはわからないことを蘭堂は喋っているが、おそらくは、形式が変わるか、意味が変わるか、というようなことを喋っているのではないかと思う。形式を、言葉を、衣装とすると、衣装を変えたのか、衣装を着ている中身が変わったのかというような話であろう。

「ダフネのような物語にするなら、なにかからミジンコに変身するというような物語にしなければならないなあ」と蘭堂はつぶやいた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?