恋から逃げるダフネ|制作中の作品【11】
ミジンコの学名をダフニア・ピュレックスといい、そのダフニアというのは、ギリシア神話に登場する精霊ダフネからとったらしい。では、なんでダフネから名前をとったのか。ダフネでなければならない理由はなんだろうか。
蘭堂はそんなことを考えた。ダフニアがダフネに由来することについて、深い意味はないと思うが、そこからなにかおもしろいことがいえないか、ということらしい。
「そこでボクは、ひとつの仮説を思いついた。聞きたいかい?」
聞きたくないと言っても話が進まない。私はうなずいた。
「ボクが注目したのは、アポロンとダフネの話の中で、ダフネが何から逃げていたかということだ。ダフネはアポロンが嫌いだから、アポロンから逃げていたわけではない。エロスがダフネに射った矢は、恋を嫌う矢だ。ダフネはアポロンから逃げていたのではなく、恋から逃げていたんだ」
たしかにそうだろう。エロスが射った矢は、恋を嫌う矢である。アポロンを嫌う矢ということではない。オヴィディウスの『変身物語』にも、アポロンとダフネの話があったと思うが、そこではダフネが他の男たちから言い寄られるのを避けていたとか、父親から結婚の話が出たときに処女神アルテミスの話を引き合いに出したとか、そんなことが書いてあったと記憶している。ダフネは、アポロンを嫌って逃げていたというよりは、恋心から逃げていたと考えられる。
私は蘭堂に同意して話の続きを促したところ、「ところで――」と蘭堂は話を矛先を変えた。
「ところで――ギリシア神話からは少し離れて、現代のミジンコについてみてみよう。ミジンコは育てるのが比較的簡単らしく、けっこう飼育されている。ボクが調べた範囲だと、飼育の目的は大きく分けると3つある」
蘭堂は3本、指を立てた。
「1つは研究用。ミジンコは環境適応力が高いらしく、水質調査とか生態系だとかバロメータとして利用されたりしている。ミジンコを研究するために飼育するというのが1つ目の目的だ。2つ目は鑑賞用。好みはあるだろうけれど、ミジンコは小さくて体が透き通っていて、ダフネの話でも考えたように精霊や妖精に見えなくもない。ペットとは呼びにくいけれど、鑑賞するという目的で飼育するということがある」
蘭堂は丁寧にも1つ目、2つ目と順に指を立てる。
「そして3つ目は餌用だ。ボクたちはミジンコを食べないけれど、メダカや稚魚なんかはミジンコを食べる。その餌としてミジンコを飼育あるいは養殖するということがある。注目すべきはミジンコは魚の餌となる、つまりミジンコにとっては魚が天敵であるということだ」
まさか、とは思うが、私は蘭堂の話を止めずにいた。
「ミジンコを食べる魚は、メダカや稚魚などの魚。そして、主に淡水魚。となれば、当然、コイの稚魚もミジンコの天敵である! ミジンコはコイを嫌う!」
……。
「コイから逃げる。恋から逃げる。だからダフニアと名付けられた!」
蘭堂は、そう宣言した。
してしまった。
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