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われ山に向かいて目を挙ぐ 10  マガジン「先妻を思う」を思う

私が書いているこのnote上には、二つのマガジンがある。一つは、何でもない毎日の繰り返しの中で、ふと気づいた面白いエピソードを書き留めようとした「じぶんについて」であり、もう一つは、若くして死んだ前妻の記憶を、なんとか今のうちに文字化しようとした「妻を思う」である。今回はこの「妻を思うという行為」をいつから意識しだしたのかという端緒を書いてみたい。

それはずっと以前、ある年の12月11日、妻Yは32年と半年間の命を、突然に終わらせてしまった。彼女は私と同い年で、7年間一緒に過ごした。
突然の死から2,3日、私はといえば自分の意識も感覚もなく、ただ口を開けて痴呆していた。父親が一切合切を仕切ってくれ14日には葬儀を済ませ、その日の夕方、二人の子を連れて実家に戻ると、私はようやく妻が死んだという明白な事実を何とか理解することができた。何故なら、いつもと帰る家が違ったからである。すると直後に、子供二人を抱えた現実を目のあたりにして、私は本当に途方に暮れてしまった。悲しいとか寂しいとかではなく、ただ「途方にくれて」しまったというのがその時の心理だ。「どうしよう」ただそれだけが私の頭を埋めつくしたすべてだった。32才の男には子供二人を抱えて家庭を作り直し生活を始めるなど有り得ない事に思えた。結果、私と残された二人の子供と3人は、よろしくお願いしますと、父母に頭を下げ、しばらく世話になることにし、生活を実家に移動させた。それまで住んでいたアパートから最低の生活必需品を運んだあと、1週間ほどかけて、仕事のあとの時間を使って、家具類の引っ越しの準備と掃除に通い出した。
住み慣れたアパートのドアを開けた時、そこで私がひどく驚愕したのは、ここに帰っても、いつもなら必ずや待っているはずの妻が、もういなかったことだ。
「ただいま」
もう一度大きな声で
「ただいま」
生活必需品を実家に移したこの時に及んでも、私の頭の中では、未だこのアパートの一室だけに、今まで通りの「家庭」というものの燭光が小さく点し続けていたのだ。まだ線香のにおいの残っている、暗い部屋の空間に向かって、ただいま、と声をかけても、答えはない。再度ただいまと大きな声を出す。でも答えはないと言う事実。「おかえり」の声が帰ってこないのだ。妻がいないという事実を知った事は、女手のなくなった生活上の不便さよりも、この「おかえり」の返事がないという、こんな些末な出来事の方が、却って私を激しく打ちのめした。
声をかけても返ってこないという事実。これは私の心の芯のあたりを押しつぶしてしまった。そうして、妻のいない家に帰るという目前の行為で、やっと本来の家庭というものの、もっと言うと妻という存在の「明るさ」を思い知ったのだが、無論すでに遅く、アパートの玄関に立って、私はずっとその場で「ただいま」を繰り返した。でも暗闇に電灯の明かりがつくわけもなく、確かに取り返しがつかないことを知った。つまり、ここでやっと私は「妻が死んだ」事は、もう絶対に「取り返しのつかないもの」だという事を認識したのだ。
部屋の電気は自分で点けなくては明るくならないし、おかえりという返事も自分で言わなくてはならない。あまりの悔しさに私は、玄関に佇立したまま、めそめそと一人泣いてしまった。

妻のYを思うという私の内面生活は、ただただそっと密かに、この出来事から始まった。だが真の意味でかわいそうなのは残された3才と1才の二人の子供で、私に妻が突然にいなくなったと同じように、彼らにとっては、ある日突然、母親が自分たちを置いて、いなくなってしまったと言う、厳然たるおおきな運命を背負わせた。幼少期に母を失うとは彼らの人生にとってどんな意味を持つのか、そうしてこの先どんな将来が彼らを待っているのかを考えたとき、私は胸が張り裂けそうになってしまった。あの日あの時、憂鬱な顔をしていた妻をおいて子供二人を連れ、逃げるように買い物へと出かけ、公園の駐車場で惰眠をとったその結果、2時間後に戻ってきたときには、すでに子供たちは大切な母を失ってしまっていたのだ。一方私と言えば、彼女が心の病気だと言う認識もなく、むしろ鬱陶しく胡散臭くてというのが正直な心理だったので、病気の妻を病院に連れて行くこともせず、ずるずると放っておいた、その報いがこうして来ただけなのだが。

あれから何年も、何十年も、過ぎた。過ぎてしまった。
そうして、今夜も、私は目を閉じる。

すると・・・