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直江津捕虜収容所跡地の見学

(この記事のなかでは、以前、私の個人ブログに載せた別記事を引用しています。自分にとって大切な経験をしたと自負していますので、今回補足を加えnote に載せることにしました。)

訪れたきっかけ

「ん?なんじゃい?これは?」

2016年夏のある日。私が見つけたのは、新潟県上越市の名所旧跡を紹介している、一枚のパンフレットに書かれていた、この一言であった。

「捕虜収容所をめぐる悲劇を忘れないために」

パンフレットは市内の略図とともに、いくつもの名所の写真が地図を囲むように配置されていたものだった。私がパンフの右中央に見つけたのは、直江津海岸に近い川の河口付近を「平和記念公園展示館」と矢印で示しながら、石碑の写真が上の一文とともに載せられていたのだ。

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私は以前より、太平洋戦争において下級兵士、軍属、工夫たちが、如何に悲惨な経験、地獄を見てきたのか、彼ら兵士たちが命令一下、その命と引き替えたものはいったい何だったのかを、市民の目線として調べている。
当時注目していたのは、いわゆるBC 級戦犯。戦地における現地人への殺人虐待と連合国兵士への捕虜虐待を主たる戦争犯罪として、戦後、横浜や元戦地などいくつかの地で裁判にかけられたものである。
ただ偶然にパンフレットを一見しても、正直「は?ここが?」という程度で、戦争とは直接はつながらなかったが、ググって見るとやはりここ新潟県上越市、当時の直江津市には、小さいながらも捕虜収容所があり、近くの工場へ、手薄となった労働力の補填ととして派遣されていたようだ。調べると全国各所に存在していたようで、そこに集められた捕虜たちは皆、悲惨な体験をしていたらしいことも分かった。

以下、2016年夏に書いた自分のブログ(日記)記事を貼り付ける。

捕虜収容所見学

僕は(この記念堂で貰った)直江津歩きのパンフレットに書かれていた「平和記念公園」に行くことにしました。
少し前、このパンフを手に取った時から少し気になって居て、下調べなどしたんですよ。
海岸からクルマで10分くらい、近かったですね。
捕虜収容所跡地との名前だったので塀に囲まれた刑務所のごとく、を想定していたんですが、海岸端と河口に囲まれた空き地にそれはありました。手前の石碑と奥が展示館。

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早速展示館へ行き、なかに入ろうとしたんですが、鍵が掛かっていて勝手には入れず、見ると「鍵は近くのだれそれに借りてきてください」との張り紙。
なので、この公園の草刈りをしていたおじさんに声をかけてみました。
偶然にもこのおじさんが、実はこの公園の管理をしている方だったようで、早速、鍵を開けてもらい、展示館を見せて貰いました。(下の写真3葉)それだけでなくおじさん、多々の説明をしてくれました。

おじさんの説明と、後ほどの調べを複合して見ると実態が見えてきました。こういう事なのです。
昭和17.18年頃、南方戦線で捕虜になった主にオーストラリア人捕虜中心の300人位が、近くにある複数の大きな工場の労働力としての前提で、ここ「東京俘虜収容所、第四分所、いわゆる直江津捕虜収容所」に連行されてきたようです。
戦争末期にはアメリカ人捕虜なども来て698名が収容されていたとのこと。
彼らの労働や生活、待遇、食事、衛生は劣悪を極め、たしかに虐待などもあったとのこと。ただその話を聞いていると少し首をかしげてしまいます。だって当の日本人でさえ敗戦近くになると食料も少なくなってきて日々の我慢の生活をしいられ、衣服も少ない戦時下ですからね。
さて戦後、BC級戦犯裁判が行われ、この直江津収容所では、他の収容所の裁判に比べ異常に多い、看守8名が死刑となったとの厳しい制裁が課せられたんですね。

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上の写真は平成元年くらいまであったという建物の一部。
下は想像図。写真がなかったのかな。

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朝礼。

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おじさんがか鍵をあけてくれ、一生懸命説明してくれた展示館です。(注:この記事の見出し写真)
その後オーストラリアに帰った元兵隊さん何人かとは打ち解け、友好行事が行われたようですが、のちに『UNBROKEN』という、この地をモデルにした映画がアメリカで制作されたとのこと。
余りに日本に厳しい内容であったその映画の話もしてくれました。

そして展示室の片隅にあった、名立港の機雷片。
私「これは何ですか」
おじさんいわく
「終戦後、近くの名立港に敷設してあった機雷が港に流れ着き、これを見に来た小学生60人と除去しようとした警察官が、機雷にふれて爆発、死んでしまった」と悲しい話をしてくれました。
戦後の事故だけに余計心が痛みます。

note記事化しての感想

上が私の書いた、捕虜収容所を見学した時の稚拙極まる記事である。近くの海岸へ、その日に行った波乗りのついでに訪れたというのが記事の主旨だったけれど、前半波乗りの件は今省略した。今になって改めてこの記事を読み、ネットで調査してみると、直江津捕虜虐待事件を裁いた横浜裁判を巡る周辺の思惑が見えてきて興味深い。
またこうして後世に生きている私たちは、無思考のまま戦争はいけないし捕虜虐待はいけないとか、また逆に、戦争末期には何十万の市民が空襲で殺されたのだから捕虜を大切になど有り得ない、とかどちらか一方の単純な決めつけはしてはならないと思う。当時の社会的背景をよく調べてから、それでも捕虜たちへの虐待が、非道なのか、やむを得なかったを一人一人が判断すべきだし、ではこれからの人生の中で自分が非日常の場面に遭遇したとき、どうすべきなのか、なにが最善なのかを、判断できる素地を作っておかなくてはならない、つまり、いましっかりと勉強しておからければならないと思う。それが私の感想。

いわゆる直江津捕虜収容所事件のいきさつは「貝になった男、直江津捕虜収容所事件、上坂冬子著」に書かれていることを知り、かなりの古本であったが、読んでみた。執筆当時はまだ遺族が存命であって、証言も生々しく、貴重なルポルタージュとなっている。

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またこの捕虜収容所が位置する日本海側は、昭和18年冬、昭和19年冬は、猛烈な寒波と大豪雪が押し寄せていたという気候も、捕虜たちにとって不運であったろうと察する。著者の上坂さんは、一般的なルポに加えて、後半では、死刑にならなかった責任者の所長の足取りも緻密に踏査していて、十分に読み応えのある本になっている。

太平洋戦争は、遠い昔の話ではない。私たちの父母、祖父母が生きていた時代なのだ。その中で、国の為政者ではなく、私たち一般市民が、非常時(戦争)において、どれだけの犠牲を強いられ、悲惨な目にあったかを、しっかり学ぶことが、大切だと私は強く思う。
以上。