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初老うつになってみた

春が来て季節も急に進みだし、「やっと暖かくなってきたね」という挨拶とともに、世人たちの活動も明るくなってきているのに、それでも自分はなんだか「冬季うつ」からなかなか抜け出られないと勝手に決めつけて、ぐずぐずと苦しんで見たりしているけれど、それは自分の病弱自慢なのかカッコつけているだけで、よく考えてみると「冬期」ではなくて実は「初老」な「うつ」でしたと言う話。
老人うつじゃあちょっと悲しすぎるから初老うつ。なぜなら老人特有の自虐行為、つまり「私は、後悔あれども十分に生きた、○○が待っているあちらの世界にいってしまいたい」という妄想が頻繁に起こるからだ。社会から成長も活躍も期待されなくなり、一方で年齢とともに意固地に傲慢になっていくという人間の老朽化から発生する顕著な現象なのだけれど、正直これには弱った。私の場合は死んだ前の妻Yと、私を産んですぐに死んでしまった前の母の、二人の女の事ばかりを考え続けてしまう。その妄想の中では、自分は、すっかり子供に退行してしまっていて、妻と母が私を「弱虫!意気地なし!」と笑いながらも受け止めてくれるという、自分勝手で誠に都合のいい話なのだが。

それともう一つ、毎晩、早く寝てしまい、朝は3時に目覚めてしまうけれど、それは後ろ向きな事ばかりを考えてしまう夜が嫌いだからなどと、カッコ良く解釈しているだけで、本当は単に夕方帰宅してすぐ酒を飲み出すから、夜9時にはもうひたすら眠くなってしまっているのが真理!と決断したいところだが、でもやはり眠れないのだ。今の妻が○○と出かけた夜などは、帰りを待っている寂しさから逃げたくて、酒をたくさん飲む。そうしていつも夜中零時を過ぎると目を覚ましてしまい、うつらうつらし始める。毎夜この繰り返しで、時折ベッドのなかでめそめそうじうじする自分がいて、これにも弱った。
眠れない、は鬱。この年で、泣くというのも、鬱。
若い頃、誰とも話さない寂しい時が数年あったけど、またこうしてあの頃のように一人ぼっちに戻っただけの事なんだけどね。

そうして早起きした朝、というか夜中、私は何をしているのかというと、読書。
数日前、太宰治「東京八景」という小説を何回目かの再読をしてみた。その中でこんな一節があった。

「恋とは」「美しき事を夢みて、穢き業をするものぞ」東京とは直接に何の縁も無い言葉である。

わあ、これは面白い。この一節に惚れてしまって、彼の特徴を現出させている一節などをメモしながら、少しゆっくりと読んで見たのだ。改めて太宰治を読んでみるとこの作家の独特の文体というか言い回し、語彙、句読点、が堪らなく好きだと言うことが確信できる。先ほどメモった文を読む。うっとりしている自分がいる。というかこの年になってまだ太宰治から卒業できていない自分がいるのだ。中原中也、種田山頭火、梶井基次郎、そして 太宰治。読書好きな若者がいっとき夢中になってしまう作家たちなんだけど、この中年、じゃなくて初老のおっさんが、もう夢中になってしまっていて、彼等から卒業ができずに、ヨタヨタと早朝の机上で電子書籍広げて、いいね!を心の中で連発しているのだ。

ちなみに太宰の数ある小説の中で私がもっとも好きな作品は、「桜桃」。