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スタバっちゅうところ

こうして毎日、夜が明け朝にになり、明るい日差しが、満腔をすり抜けて(いやそんなに穴はないけれど)脳の中にまで染み込んでくると、昨夜、がらんとした家の中、一人机の前でうずくまっていたのが、実は本当の自分ではない、別人であるかのように感じてくるから不思議。いやむしろ昨夜を視点にしてみれば、ひとり読書したり勉強したりしている本当の自分がいて、昼間の社会的生活のなかでは、周囲の思惑に飲み込まれ、自己を見失っているようにも思えて、かえって昼間の自分が別人の気がしても来る。
一人、夜のなかで本を読みつつ心の中を覗いている自分と、昼に生活世界のなかで社会とふれあっている自分と、一体どちらが真実の自分なのか、アイデンティティをどちらに感じているのかもよくわからない。
又吉直樹がテレビで、「はあーっとため息をつくような憂鬱な気持ちにならないと、なかなか小説を書こうという気持ちにはならない」って言っていたけれど、なるほどと的を得た話であって、読書したり勉強したり少し記事を書いたりするためは、夜という時間的な空間の中、一人うずくまって、うじうじとしている、一見、情けない風の僕もあっていいのかな、などと考えている。そう思うと気持ちも楽になってくる。

さてそんなわけで、どんなわけだ?、昼間の生活世界の中で、少し静かに読書しつつ、はあーっとため息つきたいときに(笑)、どこに行けばいいのかというと、ご存じスタバ。ひとりスタバ。夜のマックもいいかな。自宅の机はNG。つまりは、お一人様カフェがよろしいと言うことになる。地方のスタバによくあるの大机の片隅にそっと陣取れば、若者たちの猥雑な所作や、マダムたちの下着が透けてる洋服やらをぼんやり見つつ、それでもパソコンとキンドルアプリのおかげで、私の気持ちはほどよく内側世界へと向かうのである。
ただし、
ただし、だ。
いらっしゃいませー、こんにちはー、只今カプチーノをお作りしておりまーす、日本のスタバは店員が少し教育されすぎ。スタバで日本的従業員ふるまいをみせなくてもいいと思う。ハワイのスタバの店員、客が店内に入っても特に挨拶もなしで、席に座った客なんか、何時間いても知ったこっちゃないとばかり、おしゃべりもしちゃうし。そんな流れで少し放っておいてくださいといいたくなる。

まあ気を取り直して、僕はそんな中、カプチーノのトールサイズを片手に、チョコレートチャンククッキーの欠片を咥えつつ、太宰治「姨捨」、小山初代と心中しかけ失敗した顛末記を、ニヤニヤしながら読んでいるのである。読む者を落ち込ませる悲しく甘いこの小説を読み始め、あっちゅうまに自分の世界に入ったことを密かに自認しつつ、「最低だなオレは」などと私もつぶやくのである。

(上の写真 ハワイオアフ島マノアにあるスタバ、店内普通)
(下の写真 世界一ステキなスタバだよ、函館ベイエリア店)