われ山に向かいて目を挙ぐ 1
私はよく泣く。めそめそと、うじうじと泣く。身体は既に老骸となり、心も朽ち果てた今になっても、亡き妻を思い出してはこっそりと泣くのだ。
前の妻Yは○○年前のきょう12月11日、奇しくも同じ日曜日に死んだ。32歳だった。
その日以来きょうまでずっと、ふとした拍子に、彼女の顔、姿、くせ、そぶり、そしてもうとぎれとぎれに分解されてしまった二人の出来事を思い出しては切なくなって寂しくなって悲しくなって、そうしてしまいには泣きだしてしまうのだ。世の中にはもっともっと厳しい辛苦をかぶっている人も大勢いるのだろう、また悲しみをバネにして毅然として生きている人もたくさんいるのだろう。でも私はまるで異国の雑踏のなかで迷子となったかのように、ただおろおろとその場で右往左往しているばかりだ。立ち止まってはめそめそとして下を見ているばかりのだらしない私は、稚拙で愚鈍な男だろうか。妻Yも天上から私を見下ろして意気地なしと笑っているのだろうか。
でもこうして死んだ妻を思い続けていることを文章化し皆の目に触れさせるという行為を通して、自分の奥底にある「こころ」といったものが、実体としてあるのだということを自らに説得できるような気がする。つまり亡き妻を、Yを思い続けるということが私のアイデンティティだと思いたいのだ。
1、墓に手を振る
先日、11月の終わりの日曜、私は久しぶりに妻Yの墓参りをした。人が集う彼岸やお盆には行かない。誰もいそうにない日、もちろん今の妻が留守の時をねらって出かける。
その日は晩秋らしく山の道路には落ち葉が敷き詰められ、道路端の側溝も隠れるくらいであった。家を出るときはぽかぽかと暖かかったが、山を登るにつれ空気も冷たくなってきた。時折垣間見える街並みも変にくっきりとしていて、それがあと1週間で雪が降りますよと冬の到来を警告しているかのようだった。町の北にある山の裏側に作られた霊園に行くにはまさに今年最後の日なのだ。車で20分、寂寥とした霊園についた。妻の墓があるという一点だけで場の怖さといった気持ちはまるでなく、淡々と墓石まで階段を下りていく。
花ひとつも持たずそのまま行くので、墓に着いたところで特にする儀式もない。せいぜい墓石周りの草むしりなどし、墓石の裏に刻まれたY子 享年三十二才の文字をなぞり、少しそこに座り込むだけだ。その日もそうして30分ほど過ごし、体も少し冷えてきてさあ帰ろうと立ち上がった時だ。
墓石の向こうにうっすらだけどYが立っているのが見える。こちらを見て手を振っている。いやそれはたった今、妻を思い出し考え事をしていた私の頭の中で、寂しさと言ったものが形になっただけの事だとわかっている。妻の骨が埋まっている上で若いころの二人の昔を振り返って、ちょっと甘ったれているのかもしれない。妄想からくる幻影なのだけれど、それでも佇む妻はなにも言わずただ私をみて手を振っている。私の心の中の半分は、これはどこかにあるような映画のワンシーンを都合よく作りだしているだけなのだと、冷めているけれど、もう半分の私はそれでもいいや、だってここにいるんだから、と妻に手を振り返す。彼女は言葉を発しない。何も言わずこちらを見て手を振っている。手が届きそうな位置にいるのに。私はいう。じゃあ帰るね。こんど一度だけ娘を連れてきたいな、孫もこっそり見せてあげたいな。いや、決してそんなことしちゃあいけない、お墓は子供に見せないと決めたんだ。母親の死に関わる話は一切しないとね。Y、ごめんね。また来年の春ね。バイバイ、と勝手に妻に話しかけ、また手を振る。そろそろ帰るね。これでここを離れたら来春までこれないのだ。私は後ろめたい気持ちを残したまま高台にある駐車場へと続く木製の階段を上がっていく。車の前まできて墓の方を振り返ると、角度が悪いのか手を振っている妻の姿が見えなくなっていた。ああ、しまった、早く戻らないと妻はお墓の中へ戻ってしまう。私はあわてて階段を少しおり、お墓の見える場所に立つ。
するとYは墓の前でやはりこちらを向いて手を振っている。バイバイ、声をだして泣きながら、私は手を振る。誰もいないので恥ずかしくなんかない。バイバイまたくるね。またくるね。もうじき雪が降るよ。またくるね。
そんな「またくるね」を繰り返しているうちに私は何だか胸の奥がしめつけられてきたのを感じた。つらい胸の痛みを感じながらも、逃げるような、それでいて戻りたいような気持ちで妻の眠る霊園を後にするのだ。その霊園は町からも見える近くの山の裏側に位置している。落ち葉で埋められた細い坂道を車でおりながら、ゆっくりと現実世界に戻っていく私。平地におり町中にはいって、涙はすっかり乾いてしまったけれど、私のつぶやきはまだ終わらない。またくるねって。
北山に雲の掛かりて亡き妻の姿映せば寂しかるらむ