われ山に向かいて目を挙ぐ 6

6、今こうして老いさらばえても

人は皆、悲しくなることって、時にはあるでしょ。
昨日の朝などは通勤途上の車の中でひとり、昔と変わらぬ風景を見ては、つらかった一時期の生活を思い出す作業をして、なんだかとても憂鬱になり、運転しながらも涙がうじうじとこみあげてきて、そうはいってもこうして後ろ向きな思考しかしない俺はひょっとして心の病気なのかななど、こっそり拗ねたりへこんだり深刻そうな顔をしてみたり。 
でも同じ時間の同じ道でも今朝などは、グルグルッギューッと直腸に襲い来た脱糞の恐怖に脂汗を流しつつ、コンビニでトイレを借りるべきかこのまま会社へ行こうか、間に合うのかダメなのか、人間の尊厳を維持するためのギリギリの計算で頭がくらくらしていたのね。コンビニトイレに先行者がいたらどうしよう、いやこのまま会社まで我慢できるのか、そんなときに限って赤信号続きかもと弱気かつ優柔不断。
つまり昨日と今日ではこみ上げるものが違ったという話。

でも人間は所詮そんなもの。妙齢の女(これを読んでいるあなた)がひとり大失恋のショックに、たとえば夜の駅のホームに並べられた椅子のひとつにうずくまって、意味ありげな吐息とともに体を丸めブルブルと肩ふるわせ落ち込んでみても、隣ではすでに一杯ひっかけて酒臭い息をまき散らしている初老のおっさん(これを書いている私)が悪臭とともにブーと屁をこく。つまりそんなにも世界は雑多。
その中で臆面もなく、いけしゃあしゃあと暮らしているこの私が、昔若い頃死んだ妻Yの記憶を思い出し断片をつなげてみても、その作業ののちには大口をあけ飯を食い、そうして恥ずかしげもなく排泄をする。そう考えている私個人も実にばかげたものに間違いなく、何だか人間が悩み悲しみ苦しむその一方で、動物の体を持ち摂取と排泄を繰り返し生命を維持しなきゃいけないってこと自体が自縄自縛に陥っているのではというような不信感すら感じて、やるせなくなって来るのだ。

ああ、哲学と下世話が混濁した雑多なこの世界にいて、自分がちまちまと考えていることはあまりに小さいし、そこになんの意味も持っていないのだとわかってはいても、それでもこの小さな部屋に敷かれたマットの上で老いた体の背を丸め、今夜もこうしてパソコンを開きnoteに向かってゆっくりと自慰するのだ。シコシコ。

でも。
でもね。