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腑に落ちない「負」との出会い

大人になると、左右に並んだ間違い探しのイラストくらい「昨年」と「今年」の違いが小さい。身長も伸びないし、歯も生え変わらないし、声変わりもしないから、1年後の自分が結構上手に想像できる。

でも、子供の頃の1年は毎年はっきりと違ったし、毎年がブランニューイヤーだった。ほー、眩しい。

その中でも特に、小学六年生と中学一年生とは、「一年の差」では計れない程の隔たりがあるように思う。30歳をほどほどに過ぎた今でも、その糸魚川富士川断層のような凄まじい隔たりを思い出すと、ドギマギして、おしりのあたりがムズムズして(この感覚はわかるひといますか。いたら連絡ください)、落ち着いて座っていられない。
急に「先輩」「後輩」のコンセプトが導入されたり、科目ごとに先生が変わるシステムや部活動などもそう。
とにかく、中学一年生にはいろんな洗礼が待っている。

その中でもひときわ強烈でセンセーショナルな衝撃をもたらしたのが、「負の数」との出会いだった。

そう、「算数」から「数学」という、すました名前に変わっていたので、不安には思っていた。
新しい友達やセーラー服の着心地に慣れようと必死な私の前に、あまりに唐突に、なんの前触れもなく現れたマイナスとかいうやつ。
小6の終わり頃にその存在の片鱗を匂わせてくれていたならまだしも、不親切過ぎやしませんか。

流石の私も、「10-3=7」のように「引く」という方法はわかっていた。
ただ「りんごが10個あって、そこから3個とったら7個残る」というストーリー仕立てで理解する根っからの文系野郎だったので、「-1」のような、スタート地点が0より下のマイナスと読む数字が存在するのが理解できなかった。第一、見たことないし(開き直り)。

今こう書くと、目に見えるものしか信じない、自分に嘘をつけない純真無垢な子供だったのね、と微笑んでくれる優しい人もいるかもしれないけれど、「-1」が理解できない中学生に世の中(特に数学教師)は優しくない。

輪をかけて私を混乱させたのは、「 -1× ( -1)= 1 」というもの。

もう、大袈裟でなくパニックだった。まわりの友達がパニックになっていないのを見て、よりよく純度の高いパニックに陥るという悪循環。授業中にあんなに孤独感を感じたのは初めてだった。
マイナスとマイナスを掛けたらプラスになるなんて、そんな突然変異をどうして皆はすんなり受け入れられるのか。友達不信になりそうだった。

それでも恐ろしいもので、人は順応していく。
「 -1× ( -1)= 1 」を真に理解しないまま、末っ子の要領の良さを如何なく発揮し「それはそういうもの」として、わかった風にこれまで暮らしてきた。20年にも及ぶ仮面夫婦のような関係に終止符を打ったのは、

「 -1× ( -1)= 1 」は、言葉の「否定×否定=肯定」と同じ

という考え方を「東京ポッド許可局」というラジオ番組で知った時だった。

今まであんなに飲み込めなかったのに、嘘みたいにすーっと体に入ってきた。あまりに嬉しくて、深夜ひとり、アトリエの中で小躍りした。

腑に落ちるとはこういうことか。

でも少し経って気づいたのは、私を小踊りさせたのは「 -1× ( -1)= 1 」が理解できた喜びじゃなくて、「新しい分かり方」を知ったことで初めて実感を伴った理解ができたから、ということ。

新しい視点や、自分なりの分かり方。
私はガラスのそれをもっと見つけたい。

ということで、2018年は「必殺!セルフ腑に落とし」(セルフニオトシ)強化年決定。

追伸:
今年は、文章を書くことで散らかりがちな頭の中を少しでも把握できればなぁと思っています。
「1年の計は元旦にあり」の精神のもと、あやかれるもにはあやかって行こう、と1年の始まりの今日(深夜ギリギリ)、書いてます。

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