五街道雲助師匠の「初霜」、再び。

第9回 五街道雲助独演会 ─新年は雲助噺から─

古今亭松ぼっくり まんじゅう怖い
五街道雲助 居残り佐平次
〜仲入り
雲助 初霜

20230120
日本橋社会教育会館


久しぶりの「初霜」でした。以前、雲助師匠の「初霜」についてこんなnoteを書いたけれど、

約2年経て少し感じることが変わった気がするので、いま再びの。今度はメモログにて、ごく軽く。最初に言っておきますが、全然、まとまってないです。

かつては「芝居みたいだな」なんて書いたけれど、それよりも映画みたい。特に最後、「一両が二両……」と思案する平さんの脳内に闖入してくる、留さんの唄声。
平さんの「もしかして」が徐々に鮮明になっていく過程が、とてもていねいで。じっくりと表情のひとつ一つをアップで撮り下ろした、しずかな映画みたいだ。

そしてこの噺は、テンポがゆっくり。平さんの話をじっくりと呑み込むように、おかみさんが相槌を打ったり、疑問を投げかけたり、噺に波紋を広げていく。おかみさんがいなければ、平さん、本当に気が付かなかったのじゃないかしら。

年老いた植木職人ふたりの友情譚。──2年前、そんな言葉にまとめたときは、どちらかと言えば、ふたりの間に横たわるたしかな友情に、心があたたかくなった。ところがどうしたことか、今回はふたりが各々に抱える寂しさのようなものに、なんだか胸が痛くなる。

平さんも、留さんも、身内の死を内に抱えているひとだ。
平さんは、妻に先立たれ、息子にも先立たれた。口を開けば、ついそのことが出てしまうくらい、まだその死の爪痕が胸に残っている。

平さんが亡くなった息子のことを話すときに、こんなことを言う。「どんなにできた息子でも、死んでしまったらつまらない」。

そういえば、以前雲助師匠がヨネスケちゃんねるに映っていたときに「死んじゃうのは、嫌だな」とさらりと仰っていたのを思い出す。
平さんは、「嫌」でも「辛い」でも「悲しい」「寂しい」でもなく、「つまらない」という言葉を選ぶんだなということが、今回はとても印象的だった。
本当は色々に詰まっているこの感情を「つまらない」と、ごくぶっきらぼうな言葉で表す、平さんの不器用さ。いかにも、昔ながらのシャイな日本の男性像だなぁなどと思う。

留さんにはまだ、娘さんがいるけれど、一緒に暮らしているわけではない。娘の嫁入り先から十分暮らせるほどの援助をもらっているのに、植木屋稼業を続けるのは、なぜか。
友だちである平さんのことが心配なのもあるのかな? と思っていたけれど、いや、この人もとても寂しいのだ、と気づいた。そしておそらく、そうした自分の気持ちを、積極的に口にすることはないのだろうと思う。

自分の気持ちを表現するのが苦手で、素直になれない。感謝をするのも、謝るのも、なんだか下手。「初霜」に描かれた年老いた二人は、とても素朴な昔気質の男たちで、だからこそこの噺では哀愁と温もりとが両立するのだな、などと改めて思う。

* *

昔気質と書いたが、現代では、平さんや留さんのような人は、あまり目立たない。いない、のではなく、存在感が薄くなっているように思う。
"正しく"、"まっとう"に、(表面的にでも)他者とコミュニケーションを取れる人が多数派になりつつあって、その分、どこか他人の未成熟さを認めないような、あるいは臭いものに蓋をするような、非寛容な態度が醸成されやすくなっているように思う。

たとえ衝突が起きても、できる限り言葉で伝える努力をする。相互理解の姿勢を互いに持てる。そのこと自体は、賞賛されるべきとも、もっと当たり前になるべきとも思う。もちろんわたしもそう在りたいし、親しい人とはそういう関係を築きたい。

けれど、社会が成熟していく過程で、こぼれ落ちてしまうものもある。多様性に端を発したものが、やがて均質化を求めるようになる現象は、現在すでにそこかしこで見受けられる。
いかにも“まっとう”そうな人ばかりの声が集まる社会では、もしかしたら、平さんのような不器用さはこぼれ落ちてしまうのかもしれない。もしかしたら、数十年後には、素直になれずつい悪態を吐いてしまう平さんの感覚が、掴みにくいものになっているかもしれない……なんてことをふと思った。

今回、平さんや留さんの寂寥感や孤独感をより色濃く感じられたのは、個人的に思い浮かべる人がいたのもあるだろう。
もうずっと好きになることができていないその人のことを思うと、「不器用さ」と一括りにして、それを手放しに礼賛するようなことは、やっぱりどうしてもできない。けど、そういう相手でも、幸せを願っていないわけでは決してないのが、わたしにとってはとても厄介なことなのだ。その厄介さから離れることができないから、今回改めてこの噺を聴いて、とても複雑な気持ちになった。


わたしが平さんや留さんの年頃になったとき、どなたにこの噺をかけてほしいだろうか、とふと考えてみる。平さんや留さんの抱える寂しさは、若い時分にはどう演ったって嘘くさくなるから、きっと同世代か少し上の噺家さんだろう。

できれば、わたしがおばあさんになった頃にも、この噺を面白いと受け止める度量が、わたし自身にも社会にもあればいいなとボンヤリ思っている。

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