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日記/珈琲とくるまの娘❸

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飲んでいたアイスコーヒーは氷が溶け薄くなっていた。グラスの側面には透明な塊がそこらに出来ていて、重さに耐えきれなくなった塊がグラスの足元へ涙みたいに流れ落ちる。足元は大きな水たまりが出来ていた。涙の数だけ強くなれると言うが、涙の数だけ身体が重くなる時もある。足が重くてどこにも行けやしない。でも、それは涙や悲しさだけの重さじゃない。重なって増えていく水たまりの底に、黒く澱んだ境界がある。私はそれが何なのかを知っていて、その向こう側に居るものが何なのかも知っている。グラスは、私の手で持ち上げないとこの水たまりから解放されない、逃げられない。そっと左手を添えて持ち上げた時、また涙が落ちた。それは私の足元へとこぼれ落ち、私の靴を掴んだ。

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先入観をあまり持たないように、大まかな情報だけを頼りに買った「くるまの娘」。今まで沢山の本を買って読んできたけれど、こうしてnoteに書ききって思いを載せたのは初めての事だ。
私は物語を読む時、「俯瞰的に第三者として物語を見る」か、「物語のメインとなる主人公の気持ちに寄り添って見るか。」の2つに大きく分類して読んでいる。
「くるまの娘」は「5人の家族全ての気持ちに寄り添って見る」事を選んだ。寄り添って読もうと思ったわけではなくて、そうしないと自分の心が持たない気がするからだ。お世辞にもハッピーエンドで楽しいお話、とは言えない。かなり苦しく重い、自分と向き合わなければいけないなと思う。

傷つけた側は覚えていなくても、傷つけられた側はずっと根に持っている。家族と一緒に生きていると、配慮のない言葉遣いになってしまう事がある。それによって我慢出来なかったり、手が出てしまったりする。意図して出したものではない言葉に傷ついて、些細な事で傷つけてしまう。

「助けるなら全員を救ってくれ、丸ごと、救ってくれ。誰かを加害者に決めつけるなら、誰かがその役割を押しつけられるのなら、そんなものは助けでもなんでもない。」

「くるまの娘」本文より

ゴシップで溢れるテレビ、ニュース、新聞、パパラッチ。被害者と加害者を分けること、誰かのせいにする事、それらを公の面前で映すこと。現世を生きる私にはこの一文が深く刺さった。目に見える事のない痛みを理解しろなんてのは出来ないし、対岸にいる人とわかり合うことは難しい。これは、誰も救われる事のない、「祈り」と「絶望」だ。

「人が与え、与えられる苦しみをたどっていくと、どうしようもなかったことばかりだと気づく瞬間がある。すべての暴力は人からわきおこるものではなかった。天からの日が地に注ぎあらゆるものの源となるように、天から降ってきた暴力は血をめぐり受け継がれ続けるのだ。苦しみは天から降る光のせいだった。」

「くるまの娘」本文より

誰のせいにも出来ない。それでも何かのせいにしないと人は生きていけない、何かに酔っていないと生きていけない。「どうしようもなかったことばかり」というのは、諦念の意思。常に私たちは「被害者であり、加害者」である。傷つけて、傷ついている。かんこはこれらの苦しみを’’天から降る光’’のせいにした。家族の誰でもない、メリーゴーランドに乗っている誰かでもない、彼女たちの真上から降り注ぐ陽の光にせいにしたのだ。そうする事で正当化する、終わらない車中泊をずっと繰り返している。
’’終わらない苦しみ’’と’’終わってしまった後に残る苦しみ’’。二律背反の中で同じ場所をぐるぐると回っている、メリーゴーランドのように。

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後ろの席に座っていた女性は知らない間に居なくなっていて、店内は私しか居なくなっていた。。全てのページを読み終えた時、読了したというスッキリとした爽快感は一切なく、共感と後悔と嫉妬と暗鬱が複雑に混ざり合っていて、どんよりと心は重かった。
飲んでいたアイスコーヒーはぬるくなっていた。グラスの側面にあった塊たちは足元で大きな水たまりを作らせていて、黒く澱んだ境界線がいくつもつ出来ていた。それを見ないようにしてストローで吸い、飲み干した。
会計を済ませ、店内を出る。この日の祇園四条は暑かったのだと思い出した。
陽の光が真上から降ってくる。道は光を受け、夏だった。


2022,8,19 日記/珈琲とくるまの娘 佐野夜


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