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レベル2になった事件

 破れた網戸を貼り直すためにカッターを買ってきてほしい。五歳の私のはじめてのおつかいはこんなものでした。行き先はたぶん歩いて五分ぐらいの商店街。なんだか大冒険でもしているように思ったことを覚えています。

 弁護士にもはじめてのおつかいがあります。バッジを貰ったといっても、駆け出しの頃なんて書類の書き方ぐらいしかわかりません。コピー機の使い方とか、電話の取り方とか、スライムを倒すようなことから一つ一つ知って、少しずつドラゴンにも手が届くようになっていくのです。今日は、私が弁護士になりたての頃、ちょっと強くなった日の話をします。

 朝から憂鬱でした。姫路の方で事件があり、ある防犯カメラの映像が、それ一つで結論が変わるぐらいの決定的な証拠でした。しかし、カメラの持ち主から映像をいただくことができていませんでした。機械の仕組み上、映像は一定期間が過ぎると消えてしまいます。その日がちょうど期限だったにもかかわらず、数日前に断られたまま、連絡がついていなかったのです。

「繋がったらどう説得しよう。もし電話にも出てもらえなかったら?」
 今でも確たることはわかりませんし、その頃はもっとわかりませんでした。それでも、三十分以上話を続けるなかで、最終的には映像を提供してもらえることになりました。これが私の初めての交渉でした。電話を切って、大きくガッツポーズをして、それから慌てて電車に飛び乗りました。
 お店までのことは、特にこれといった話はありません。交渉の方が大変でしたし、波乱といったこともなくほしかったものをいただくことができました。映像もこちら側に決定的に有利なものでした。それを確認して、やっとやっと一息つくことができました。

 安心するとお腹が空きます。お腹が膨れると欲もわきます。受験生だった頃、仕事をさぼって遊びにきた友人によく息抜きの相手をしてもらっていました。八瀬へ涼みに出かけたり、夜の鞍馬を探検したり、亀岡のホタルを見に行ったり。職場に籠っていては息が詰まります。
 二三時間遊んで帰ってもいいな。いや、せっかく来たのにそのまま帰るなんて時間の無駄だ。そう考えて、私は姫路城に繰り出すことにしました。 

 天守閣から姫路の街並みを見下ろすと、なんだか世界が少し広がったようでした。小さなものですが初めての交渉をまとめ、こんなに遠くまでやってきた。ちょっとだけレベルアップできたことが誇らしく思われました。
 弁護士としてのはじめてのおつかいは、なんだか大冒険でもしているようでした。依頼者に勝利にもたらし、少し強くなって職場に戻った私は、旅の間に積もりに積もった書類の拍手喝采に迎えられました。社会人なんてそんなものです。とっぴんぱらりのぷう。

 

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