「創作大賞」探してください 1
矢上景子は思い出していた。十数年前のあの夏の日、夢を叶える途中で、旅立って逝った友人 美由紀の事を…。
景子に「探して」と伝えに来た美由紀の霊にしたがって動いたつもりだったが、彼女はその願いを叶える事は出来なかった。それから、その事件の関係者は次々と姿を消した。
それが美由紀がくだした罰だったのか?
ネズミの寿命は長くて三年と言われている。
しかし、その繁殖力は一年間におよそ三十匹の子孫を残す。約半数が雌だとして、その雌のミトコンドリアDNAは次世代のネズミに遺伝していく。もしも、そのミトコンドリアDNAに意思があったとしたら……。
「探してください」
会社指定の薄いブラウスが背中に貼り付くような蒸し蒸しとした夜だった。
矢上景子は月末の残業を終えて、一人で暮らすアパートに辿り着くとエアコンのスイッチを入れてから、窓を開け放した。一日中締め切っていた部屋に新しい空気を取り込みたかった。
「あっ!」
思わず大声を上げた。
小腹を満たすためにコンビニで買ったフランクソーセージを食べようとした時だった。
片方がケチャップ、片方がマスタードのビニールの容器をブチッと押し潰した瞬間、ケチャップだけが、これから読もうとしていた新刊本の真っ白な頁に飛び散った。
「なんでよ!んも〜!」
自分のそそっかしさに腹が立ち、丁度読もうとした頁に飛んだケチャップが憎たらしかった。
直ぐにティッシュを手に取り、拭いたが白い頁にケチャップの液体が滲みていった。
拭いても拭いても、紙の繊維の中に朱い色素が薄く広く拡がっていった。
そのシミの模様を見ながら、景子は十数年前のあの日を思い出していた。
あの日も、こんな風な蒸し暑い夜だった。
大学最後の夏休みだった。地元の中小企業に就職が内定した景子は実家に帰省もせずに友達と卒業記念の海外旅行に行く為にバイトに明け暮れていた。
そんな時にバイト先で出会ったのが、美由紀だった。
男ウケを狙って髪型も服装もお嬢さん風を気取っていた景子とは対照的に美由紀はショートカットに垢抜けたファッションの人目を惹く美少女だった。仲良くなるとバイト歴では美由紀が二年も先輩だが、歳は景子より二つ下の服飾専門学校生だという事を知った。
「ファッションを習いたいんだ〜、夢は私が創った服を皆が着てくれる事!」
地元の中小企業に内定をもらって安定だけを得た景子と夢に向かって進む美由紀は、ファッションも生き方もまるで違ったが何故かとても気が合った。
或る日、美由紀がいつにも増してハイテンションでバイトに出勤して来た。
「景子ちゃん、私、イタリアに行く!!応募していたイタリア留学に選ばれた!!」
「マジ!?えっ、それって美由紀ちゃんの夢への第一歩じゃない」
「うん!」
フランスのパリじゃなくてイタリアって所が美由紀らしいなと景子は思った。
「でも英語は少しは話せてもイタリア語なんて分からないでしょ?」
「ふふっ」
美由紀は、いつも首にぶら下げている有線イヤホンの片方を景子の耳に充てた。
「%$#a@o?bt&……」
流れてきたのは意味は分からないが、確かにイタリア語のイントネーションだった。
「独学でずっと勉強してたのよ、何とかなるっしょ~」
「おーい、ハンバーグあがったよ~!油売ってないで運んでくれよ(笑)」
景子達を夢から現実に引き戻したのは、厨房のマスターの一声だった。
「はーーい!」
景子は白いイヤホンを美由紀の華奢な肩にそっと返した。
景子がバイトする店は、学生で賑わう街の老舗ハンバーグステーキ店だった。学生達をターゲットにした店が連なる商店街の中で、此処は大人を対照にした落ち着いた店だった。大人を相手にしていたから、夜はもちろんワインやビールを扱っていた。
シックな色合いで統一された内装を指して
「マスター!お店の中、茶色ばっかり!此処も茶色、彼処も茶色、おまけにハンバーグも茶色!!」
美由紀は、よくマスターをからかっていた。
「いいんだよ、お前達が華だから」
髭を蓄えたマスターは一見強面だが、穏やかで優しい人柄だった。店のフロアーは学生のアルバイトで賄われていた。何人の学生達が此処から社会へと旅立って行ったのだろう。そして、マスターは何年も何十年もそれを見続けて来た。
そんな中でマスターにとって美由紀は異色で特別な存在だった。景子のように故郷を持ち、学生の間だけ腰掛けのようにこの街に住むアルバイトと違って、美由紀はこの街に生まれ、母と妹とずっと暮らしていた。
高校生の春休みに突然、飛び込みでバイトの面接を受けに来たと言う。
「真っ赤な髪でさ、店の雰囲気に合わないから断ろうと思ったんだけど……」
「意外と使えたでしょ?」
美由紀は当時を思い出したようにペロリと舌を出した。
「どうしても今の学校へバイトしながら通いたいって、親思いな娘だと思ってさ」
「次の日に真っ黒に髪、染め直して来たしね」
「コイツ、見た目と違って真面目なんだよ」
マスターの言う通りだった。やれ、コンパだ!次の授業に出ないと単位が足りないとバイトのローテーションを変える景子と違って、美由紀は絶対に仕事に穴を開けなかった。他の人の急な休みの日には、自分から率先して出勤して来た。
そんな美由紀とマスターは、はた目には歳の離れた仲の良い親子に見える程だった。
夕食の混雑時が過ぎ、フロアーが一段落した頃、美由紀はカウンターの向こうの厨房に声を掛けた。
「マスター、ごめんなさい。私、今月でバイト辞めさせて下さい」
景子と美由紀の賄い食のフライパンを振っていたマスターの手が止まった。
「美由紀、何で?急に?何かあったのか?」
美由紀はマスターと卒業まで、この店でバイトする約束だった。
「留学が決まったんです!!」
「えっ?!」
マスターの大きな眼が見開かれた。
それ以上何も言わずに振り返り、フライパンから二人分のパスタを盛り付けた。大盛りのナポリタンの皿を二枚、カウンターに座る景子と美由紀の前に置くと
「良かったな、美由紀」
「はい!」
出来たてのパスタから立ち昇る二つの湯気の向こうで、マスターの眼が潤んでいるように景子には見えた。
八月最後の定休日、マスターが美由紀の壮行会を開く事になった。招待されたのは、店のアルバイト全員とOG、常連のお客様達……総勢二十数名。
全員が美由紀と関わり合い、彼女を可愛いがっている人達だった。たった二年間のバイトで、美由紀は、これだけの人間関係を築いていた。
そしてマスターがバイトを卒業する娘に壮行会まで開くのは初めてだった。
店内のテーブルが中央に一直線に集められ、まるで小さな結婚披露宴が行われるようだった。
テーブルの上にはマスターの手作りの料理、常連のお客様からの差し入れの寿司桶などが所狭しと並べれていた。
その真ん中に座る美由紀が
「超豪華じゃん!」
と歓喜の声を上げた。
「乾杯しよう!」
マスターの発声と共に常連の男のお客様達の手で、
ポーン、ポーン……
シャンパンが次々と開けられた。
「美由紀は、まだ未成年だからシャンメリーな」
「分かってますよ、マスター」
景子はぼんやりと
(美由紀ちゃんて、まだ十九歳なんだ…)
と思っていた。
全員のグラスにシャンパンが注がれると
「美由紀、挨拶!挨拶!」
マスターが促した。
ショートカットの髪を明るい茶色に染め直した美由紀が、カタンと席を立ち一礼した。
「え〜、今日は私の為にお集まり頂きまして……」
「固いぞ!美由紀〜〜」
常連のお客様の誰かが、ヤジを飛ばした。
美由紀は、その言葉にニッコリと微笑むと
「え〜、もう最高!!!カンパーーイ!!」
シャンメリーのグラスを高々と持ち上げた。
「乾杯!」
「乾杯!」
「おめでとう!」
「たまには遊びに帰って来いよ」
「立派なデザイナーになるんだぞ」
皆が美由紀の周りに乾杯をしようと集まる。
(愛されてるな~)
その様子が景子には自分の事のように嬉しかった。
景子の番が回って来た。グラスとグラスをカチンと合わせる。
「美由紀ちゃんが創った服、ワタシが一番に買うからね」
「約束だよ!絶対だよ景子ちゃん」
微笑む美由紀の左の耳たぶには開けたばかりだという穴に小さなダイヤのピアスが輝いていた。
「約束だよ!絶対だよ!」
景子は美由紀との約束を守れなかった。
いや、美由紀が景子との約束を守れなかった。
数時間の壮行会が終わりを告げようとしていた。
「写真を撮ろう!」
マスターはガラケーから買い替えたばかりのスマホを得意気に持つと慣れない手付きでシャッターを押し始めた。
大きな花束を抱えた美由紀を一人で立たせたり、大勢の中央に座らせたり、ほろ酔いになったマスターは美由紀との別れを惜しむように何枚も何枚も写真を撮り続けた。
あの夜の彼女は、原宿で買った安物のワンピースを自分でアレンジしたのだと言って上手に着こなしていた。その姿は、モデル?ううん、まるで妖精か人魚のような美しさで景子の目に焼きついた。
「いってらっしゃーい」
「元気でね〜」
「頑張ってね~」
店の前で、花束を抱えたまま迎えに来た彼氏の車の助手席に乗り込む美由紀に皆が声を掛けた。
「ありがとうございます、ありがとうございます」
美由紀は車の窓を開けると何度も何度も、皆に頭を下げた。
「本当に本当に美由紀がお世話になりました」
柴田誠と名乗った美由紀の婚約者だと言う青年は、車の外に立ったまま、その場に居た皆に一礼して運転席に乗り込んだ。
「じゃあ、失礼します」
スポーツタイプの白い車が夜の闇に消えていくのに時間は掛からなかった。
「美由紀ちゃん、あんな素敵な人がいたのね」
「美男美女でお似合いね~」
バイト仲間は口々に羨望の声をあげていた。
イタリア留学、素敵な歳上の社会人の彼氏…
絵に描いたような未来が美由紀の前に広がっているようで、平凡な人生を選択した景子には眩しかった。
でも、それは美由紀が人一倍の努力を積み重ねてきた結果だった。
「さぁ、片付け手伝ってくれよ」
マスターの一言が解散の合図だった。
常連のお客様達はタクシーを呼び、家が近い人は歩き始め各々が帰り始めた。一人減り、また一人…
アルバイト現役の景子は、厨房の流しに溜まった沢山の皿を洗い始めた。
夏の終わりのあの夜の蛇口からの水は生暖かく、景子の両手に流れては落ちていった。
片付けを終わらせ、1DKの小さなアパートに戻ると12時を回っていた。
「あ〜、疲れた」
パジャマ替わりのTシャツとスウェットの短パンに着替えると景子は、あっと言う間に眠りについていた。酔いと片付けの疲れで熟睡している筈だった。
ところが深夜、三時を過ぎた頃だろうか。
景子は耳元にす〜す〜と掛かる寝息で目が覚めた。
気のせい?
上半身を起こして隣に目をやると其処にさっき彼氏と一緒に帰ったはずの美由紀が寝ていた。
「夢?」
そうだ、夢だ!だって美由紀ちゃん、家に来た事ないから場所だって知らないし……
ん?景子は再び考えた。部屋は真っ暗なはずだ。景子の習性で眠る時は部屋の灯りを全て消す。それなのに何故か景子は隣の寝息の主が美由紀だと分かっている。
何も見えていないのに…
でも、確かに其処に存在しているのは美由紀だと言う不思議な感覚。
「夢?疲れてるの?私?」
うとうとと襲ってくる睡魔が、不思議な感覚に打ち勝ったのだろう。再び景子は眠りに落ちた。
す〜、す〜、す〜……
さっきよりもはっきりと寝息が耳元に掛かっているのが分かる。
「疲れてるんだから、寝かせてよ、美由紀ちゃん!」
ハッキリと自分の口から美由紀の名前が出た事に景子自身が驚いた。
見えないのに感じる存在感…
暗闇に目を凝らしても、何も見えな……
見えた!!
景子の枕の隣で、大きな眼をゆっくりと開く美由紀の顔!
でも身体は?身体は見えない。
落ち着け!落ち着け!見える方がおかしいんだ。真っ暗なんだから見えないのが普通…
でも顔は?顔はハッキリと見える!いや、脳が感じでいる。
美由紀は整った美しい顔立ちをほんの少し歪め懇願するように景子を見つめていた。
『景子ちゃん、探して…』
「えっ?な、何言ってるの?何を探すの?美由紀ちゃん?」
『景子ちゃん、探して、私の…』
どうしても最後が聞き取れない。
そして、そのまま美由紀の顔は段々と輪郭を失くし空気に溶けていく煙のように存在と言う感覚が遠ざかっていった。消えた。
今のは何だっの?変な夢?
でも吹きかけられた寝息の感触が、まだ耳元に残っていた。
寝ちゃおう!!
リーン、リーン、リーン…
三度目の眠りに付いた景子を叩き起こしたのはスマホだった。何度も何度も出るまでは切らないと言う強い意志を発するように鳴り響く着信音。
仕方なくベッド脇のサイドテーブルに手を伸ばした。其処だけ明るく光るスマホの液晶画面を見ると音の主はマスターだった。
「今夜は最悪〜」
酔っ払って間違えたのかな~?
夏の朝は早い。白み始めた陽の光が遮光カーテンの隙間から漏れていた。
「もしもし〜、マスター、何時だと思って…」
「………」
聞こえてきたのは、マスターの嗚咽だった。嗚咽が少しおさまると
「美由紀が美由紀が、死んじゃった」
それだけ言うと嗚咽の次は号泣だった。
「えっ?だって、つい昨日まであんなに元気に…」
「俺のせいだ、俺が壮行会なんて開いたから」
男泣きに泣きながら、むせぶ声の合間にマスターは事の顛末を話した。
「あれから直ぐに事故が起きて…」
「えっ」
プルプル、景子は足元から血の気が引いていくのを感じた。プルプル…震えは足元から指先に移り、景子の神経が徐々に麻痺していくようだった。
「死んだ、死んじゃった…」
自分に言い聞かせるように頭の中を同じ言葉が反芻していく。
「ウソッ!!イヤーーーーー!!」
やがて、感情が爆発した。
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