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「エッセイ」親友に捧ぐ懺悔

私には小学校三年生の時に出会った大切な親友が居る。愛称は「ちーちゃん」


あれは小学校三年生の二学期の始業式の後だった。
教壇で担任の先生が、ショートカットの小さな女の子を転入生だと言って紹介した。
それが「ちーちゃん」だった。
「皆、仲良くするように!」
「はーい!」

ちーちゃんは、丁度空いていた私の前の席に座った。
「私、学級委員やってるsanngo、仲良くしようね」
「よろしくね」
その日から私達は毎日、一緒に下校するようになった。家も直ぐ傍だったからだ。

ちーちゃんは東京から来たと言った。田舎者の私には「都会育ちの子」だと眩しく見えた。

でもそれは直ぐに間違いだと気付かされた。
毎日毎日、下校時に話をするうちにちーちゃんは、自分の身の上話を少しづつ始めた。

ちーちゃんは三年生の夏休みまで孤児院で暮らしていたと告白した。やっと久しぶりに産みの母に引き取られた時には新しいお父さんが出来ていた。
その継父の仕事の関係で、この地に引っ越して来たのだと言う。

私はと言えば、三歳で両親が離婚して父に引き取られた。
最初のうち優しかった継母は私が成長するに従って陰湿な意地悪を繰り返すようになっていた。

似たような境遇にいた私達は(ちーちゃんの方が、よりハードだったが……)幼いながらに自分達の身の上を嘆き憐れむうちに意気投合していった。

毎日毎日、いつも一緒に居た。
ちーちゃんの新しいお継父さんは、優しい人だった。
私も一緒に遊園地に連れて行ってくれたり、大磯ロングビーチも、ちーちゃんのお継父さんのおかげでデビュー出来た(笑)
三年生から四年生は同じクラスだった。五年生になった時、クラス替えで別のクラスになってしまった私達は「交換日記」をする事にした。

五年生の時の私は父が仕事の関係でブラジルへ単身赴任していて孤独だった。
私は、その寂しさや継母の仕打ちを日記に綴って、憂さ晴らしをしていた。それをちーちゃんは自分の今までの苦労話を混じえて、元気付けてくれた。

そんなある日の放課後、ちーちゃんが交換日記を私に投げてつけてきた。
「もう日記は書かない!絶交だよ!」
いつも静かなちーちゃんが珍しく怒っている。
「何で?何故、そんなに怒ってるの?」
「sanngoちゃんとは、もう付き合っちゃダメだって!お母さんに殴られた……」
「……」
何故?私も可愛いがってくれるちーちゃんのお母さんが、そんな事を言うのか理由が分からなかった。

「sanngoちゃん、お継母さんにこの日記見せたでしょ?」
「えーー!?そんな事しないよ、絶対!!」
「でもsanngoちゃんのお継母さんが、全部知ってるって私のお母さんが…」
ちーちゃんは私に裏切られたと思って泣きながら走って行ってしまった。


子供にも子供の世界がある。
もちろん、プライバシーもだ。
私の継母は私の机の引き出しから日記を取り出して、コッソリ全部見ていた。
その事実を私には告げず、スーパーで会ったちーちゃんのお母さんにぶつけた。

私は継母を詰った。
でも父と言う後ろ盾が地球の裏側のブラジルに居た私が、どんなに正論をぶつけても笑って取り合ってくれなかった。
「sanngoちゃんが悪いんでしょ?私の悪口書くから」

ちーちゃんに何度も謝って一応仲直りは出来たが、二人に出来たシコリのようなものが無くなるまでにかなりの時間を要した。

そんな事があっても、私達は親友だった。
中学校も一緒に過ごし高校は違ったが、18歳になると一緒に自動車教習所へ通った。
社会人になってからは、ちーちゃんが経営する進学塾の講師に呼ばれた。(ちーちゃんは結構なキャリアウーマンだった)

青春時代も共に過ごした。
二人でお酒を飲みに行ったり、同じ人を愛して取り合った事もある(笑)今では懐かしい思い出だ。

もちろん、お互いの結婚披露宴にも出席した。
ちーちゃんが二番目の子供を出産する時は一緒にランチを食べていた。
突然、
「私、破水しちゃったみたい…」
出産経験の無かった私は、産む本人よりも大慌てで運転して病院へ向かった。


その後、ちーちゃんは離婚してシングルマザーになり、二人の子供を育てていた。
私は主人と結婚して仕事が忙しかった。
それでも、数ヶ月に一度は会ってランチをしたり、飲みに行ったりしていた。
大人になってからの親友は、付かず離れずの距離感が丁度いいと思っていた。
会えば、直ぐに昔のように打ち解けあえたから……

私の主人が倒れてからも、暇を見つけてランチに行った。さすがに飲みに行く時間の余裕はなかったが。
ちーちゃんは、いつも私の心の支えだった。


それが、ある日
ちーちゃんの携帯が繋がらなくなった。
最初は『お掛けになった電話番号は電源が入っていないか……』と言うお決まりのアナウンスだった。
それから暫くすると『この電話は現在使われておりません』に変わっていた。


当時、私は主人を看る事しか考えていなかった。
二つの事を同時に出来ないのが、本当に私の悪いところだと思う。

主人が亡くなって暫くして落ち着いた頃、私は必死になってちーちゃんの連絡先を探した。
昔の手帳にちーちゃんの実家の電話番号を見つけた時は、小躍りした。
まるで元彼に電話を掛けるようにドキドキしながら、スマホを持っていた。

「はい、〇〇です」
聞き慣れたちーちゃんの優しい継父の声だった。
「あ、ご無沙汰しちゃって、すみません。〇〇(私の旧姓)です。ちーちゃんと連絡が取れなくて……」
「あ〜、sanngoちゃん、元気?ちーから聞いてたよ、旦那さんが倒れて大変だって……」
それから暫くの沈黙の後、お父さんは思い切ったように口を開いた。
「ちーはね、亡くなったの」
「えっ?!」
「一時は大分良くなったんだけどね、最期は肺炎で……」
「……」
言葉が出て来なかった。
多分、お悔やみの言葉を言って電話を切ったと思う。


死んじゃった?!
ちーちゃんが居なくなっちゃった?!

何故、具合が悪い事を私に連絡して来なかったのだろう?
私達、親友じゃなかったの?
そう思っていたのは私だけ?
その後、ちーちゃんは他の仲の良かった友人にも一切連絡していなかった事を知った。

家族にだけ見守られて逝ってしまった?!
それとも新しい彼でも出来ていたかなぁ……
そうだったら嬉しいけど…

それにしても水くさい。
ちーちゃんの性格だから、当時の私にこれ以上の負担を掛けたくないと思ったのか……
もう聞く事は出来ない。

そうだったね。
私達は小学生の頃から二人ぼっちだった。
そして異常な程、二人共に我慢強かった。
貴女はきっと病を乗り越えてから、私に連絡して来たかったんだね。
何でもなかった顔をして
「ランチでも行く?」
って。
以前、病気をして入院した時も連絡くれたのは退院した後だったっけ……


今も悔やんでも悔やみきれない親友の死。
八月十六日はちーちゃんのお誕生日だった。
今は苦しみのない世界に居るだろうか?
それとも上手に生まれ変わったかな?
次があるなら、もっともっと幸せな人生を……
あぁ、それからその意地っ張りな性格を治して弱音を吐くんだよ。
お互い様か…


私はちーちゃんのお墓参りに未だに行っていない。
行けていない、行けない。
代わりに友人を差し向けた。
罰当たりなのは百も承知だ。
私はちーちゃんが亡くなった事を認めて生きていたくない。
何処か海外にでも優雅に旅行していると思っていたい。もう少し歳を重ねて貴女の死を認められたら、必ず行くから待っててね。
いや、その前に貴女の処へ私が逝くかもしれない(笑)

それまであの日二人で綴ったように、作文を書き続けよう。





ずっと私は貴女が好きだ。
大好きだよ。




※貴女の死を伝えて「可哀想に可哀想に」と私の継母は泣いた。
可哀想ではない。出来れば「ごめんなさい」と泣いて欲しかった……私は言葉を飲み込んだ。
人の悲しみを指摘するほど、私もまだ人間が出来ていない。

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