スタジオシップ狂想曲(前編)

小池一夫とボクの五年間


稀代の作家、漫画原作者の礎を築き、数々の名作と作家を世に送り出した巨星、小池一夫師匠が亡くなってからしばらくたち、気持ちも落ち着いてきたから、ぼちぼちとボクも師匠とあの頃の想い出を書いてみようかと思う。

しかし、これらはほぼ。三十五年以上前の僕の不確かな記憶に基づいたもので確かなエビデンスがあるものではない。
「あ、鍋ちゃん、そこは本当はこうだよ。とか、そういえばこんなこともったよ」という好意的な補足補完をしていただくのは大変ありがたいが、「違う。それはこうであり、間違っているとか、あれは俺がやったんだ。」とかそういう悪意のあるクレームじみたものは、一切受け付けないのでご了承いただきたい。これはあくまで僕の思い出話なのだ

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その頃、大学を出て僕は友達と事業を起こした。主に横浜を中心に、今で言うADDや発達障害の子供たちを預かり、勉強や運動を教えプールやハイキングなどを経験させる事業で、今でこそ似たような物があるが、そのころは前例が無く、特に現役大学生や大学を卒業したばかりの若者だけで運営しているものなどなかった。なので物珍しくテレビやラジオでよく取り上げられたが、経営的には破綻して解散となってしまった。
それで、ぎらつく夏の太陽の中、僕はスーツを着て出足の遅れた就職活動をしていたのだ。
幼い頃から本が好きだったボクは手当たり次第に出版社や編集プロダクションの中途募集を受けまくっていた。その時、たまたまぶつかったのが漫画原作者小池一夫先生が経営する出版社兼ねる漫画制作プロダクションのスタジオシップだった。
当時、シップは目黒区柿の木坂の高級一等地の大御殿を社屋に使っていた。社屋は左右二棟に分かれ、一階は編集部と駐車場、倉庫と喫茶室。二階は芝生の庭と、右練が総務部、販売部、経理部、社長応接室。左がホール兼会議室と応接室。3階は右が社長室。左が作画室と仮眠室。作画室には「弐拾手物語」の神江里見さんや、「青春動物園ZOU(動物園)」のやまさき拓味さん、「鬼弐」の伊賀和洋さん「クロマティ」の篠田さんらのそれぞれの班の先生(チーフ)とそれにつく三、四人のアシスタントが毎晩のように泊まり込んでいた。
他に漫画雑誌の「コミック劇画村塾」と発行したばかりのゴルフ雑誌「アルバトロスビューの編集部。コミック単行本編集部、その他、総務、経理、販売んどの部署があった。

ボクはその編集者の募集に応募して、筆記試験に合格し、K総務部長とN経理部長の面接を経て、社長面接を受ける事になった。それが小池一夫師匠との最初の出会いである。
実のことを言うと、僕はそれまで、小池一夫の名前も、作品も、漫画原作者という仕事があることもまるで、知らなかったのだ。
その時、50代180センチ以上。骨格がしっかりして顔と頭が大きく、眼光鋭く。いかめしい顔で迫力があってなぜか孤独な巨象のような印象をボクは受けた。

会ったとたん、僕は顔に熱風が吹き付けるのを感じた。そういう人には、それまで24才の人生で出会った事はなかった。
大学に入る前の浪人時代、大阪ロイヤルホテルに勤務していたので、世に言う大人物、大社長という人を遠目に見たことは何度もある。
過去、関西の大きな系列のそれなりのヤクザの組長に、お前見込みがあるから運転手にならないか。と誘われた事もあるが、そのオヤブン以上の迫力とカリスマ性が当時の小池師匠にはあった。
これはとりあえず、この人についていこう。これだけの人に滅多に出会える機会はない。
何者かになりたい。平凡な無名なサラリーマンで終わりたくないと思っていたボクに、ひょっとして人生が変わるかもしれない。そう思わせるだけの小池一夫との出会いだった。
そして、その瞬間から確かにボクの人生は変わったのだった。
そんな一生を左右する瞬間というものが人生には何度かあるものなのだ。
小池師匠との社長面接は、ごく短いものだった。
「ずいぶん日焼けしているわね」K部長が言った。
「はい。海やオートバイが好きな物ですから」
「生年月日は?」何やら四柱推命らしき占いをされただけだった。
小池一夫先生に何を聞かれたかは覚えていない。何も聞かれなかったのかも知れない。
結果、編集部の募集は実は経験者に限る。ということで、不採用だった。
がっかりしていたのだが、なぜか小池社長やK部長に気に入られ、とりあえず面白そうだから会社に置いておこうとなった。
小池一夫社長もN経理部長もK部長のご主人で小学館の社員でシップの顧問だった人も、ボクの母校、中央大学の先輩だったから。というのも理由の一つであった。
僕はたまたま高校は商業高校出身で、簿記会計級、コンピューターの一級を持っていたので、経理課に配属される事になった。
何かクリエィティブな仕事がしたい。本が作りたいと思っていた僕には、不本意ではあったが、とりあえず小池一夫の側にいておこうと思って、入社する。入社当初は仕事が与えられず暇だったので、ひたすら小池社長の作品を読む事ですごした。
それが許されたのだ。というか奨励されていた。
おそらくほぼ全ての小池作品をその時期にボクは読破した。
どれも面白かった。世の中には凄い才能の人がいるものだと感動した。
中でも首切り朝、ケイの凄春、子連れ狼の三作は、ものすごい衝撃を受けて、今でもボクは小池一夫の三大傑作だと思っている。
やがて、会社に馴染んできて、経理に手を入れはじめて分かってくると、びっくりした。
経理部のみんなが経理の素人で誰も簿記を知らない。一人、経理部員の先輩のHさんが簿記の夜間の専門学校に社命で通っていたが、実務はベテランでも、まだ三級にも合格していなかった。
現金伝票と振り分け伝票、現金出納帳と勘定元帳だけで経理を行っており、損益計算書や貸借対照表もなかった。当然、予算書や予測資料も無い。
まぁあったとしても来年の入金予測など立てようもない、当たるも当たらないも博打勝負が弱小出版社であり作家稼業なのだが。
そんな中でものすごいどんぶり勘定で何十億というお金がゴォオッと音を立てて動いていく。
小池社長の原稿料だけで月二千万円以上、印税は年間数十億円。
筆一つで数十億円稼ぎ出す男とはどういう男なんだと、びっくりした。
だが、当時、スタジオシップはコミック劇画村塾という漫画雑誌と、ゴルフ雑誌の、アルバトロスビューという二つの出版物を作っていたのだが、それらの雑誌ごとの損益計算書もなく採算分岐点も出されていなかった。
ボクはその採算分岐点をはじき出すために雑誌ごとの経費の洗い出しから始めた。これによって雑誌の毎号ごとの損益計算書を提唱し、自分でフォーマットを作って表とグラフにした。
しかし、これは編集部の機嫌を大きく損ねた。なぜなら、当時は発行していたゴルフ雑誌の「アルバトロスビュー」漫画雑誌の「コミック劇画村塾」二つの雑誌共に大赤字で、くわえて複雑な計算でないと分からない単行本の損失、それを明らかにしてしまったからだ。
当然、当時の編集長と新入社員のボクは大きくぶつかる事になる。両雑誌の編集部のトップはともにI編集長で、まだ若い女性ではあるが鬼の編集長として小池社長、K総務部長、の次に社内で恐れられていた人だった。
そんな鬼編集長と、経費削減を巡って、鉛筆一本、編集者のビール一つ、宿泊時のアダルトビデオの鑑賞料まで削りに削って攻防したものだ。「経費削って物作りなんかできゃしないわよぉ!」「それでも削ってもらわなきゃ、雑誌が潰れます。この部分をこうすれば、賄えないですか?紙質下げましょう」そんなやりとりばかりだった。
それなりに面白かったが、編集長に睨まれて、編集部への移動の夢はますます潰えていく。
そんな時、社内にあるお達しが下った。
小池社長の主催している「小池一夫劇画村塾」を新入社員は全員聞くように。
「小池一夫劇画村塾」とは当時、小池一夫塾頭が後進を育てるべく行なっていた漫画の私塾で今のように漫画を教える専門学校や大学のない頃、唯一の漫画を教える場だった。
高橋留美子、原哲夫、他あまた綺羅星のような大作家を排出している。
ボクとその他の新入社員は、正規の三十万の授業料を払って受講している塾生たちと違って無料で、ホールの廊下の衝立の裏で小池塾頭の講義を聞いた。
これが、まあ面白かった。
すさまじく論理的で説得力のあるメソッドだった。
そして自分も何か書けるような気にさせる実にアジテーションな講義だった。
これがまた、ボクの人生を大きく変える事になる。
その気になってしまったのだ。
小池一夫劇画村塾の講義を聞いて、その気になったボクは、同じく講義を聞いてその気になった、販売部のOちゃんと、Sちゃんの三人で、当時、漫画原作の新人募集をしていた集英社青年漫画原作賞に応募してみようかという話になった。
今さら漫画は描けないが、原作なら何とかものになるかも。
そんな思いだったが、今にして思えば応募者二千人の賞に、講義を聞いただけのズブの素人が挑むというのは無茶な話である。
だいいち、当時のシップは、朝九時に出社して十二時過ぎまで会社にいて二時か三時まで呑んでいる。という無茶苦茶な勤務で。よく書く暇があったと思う。いつ書いてたんだボク。

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それでも当時高価だったワープロの書院というのを思い切って購入して、ほとんど寝ないで50ペイジの原作を書き上げ、応募した。
しばらくして、経理部で伝票をコンピューターで打ち込んでいた時
当時秘書課のI課長が入ってきた。「鍋島、集英社の賞に応募したか?」「ええ。何で知っているんですか?」「最終選考の十作に残っているぞ」「えええええ!」まさに青天の霹靂だった。
小池一夫師匠は賞の選考委員を務めていて、下読みを経て最終選考に残った10作は最終選考会議の前に、選考委員の所に前もって送られて来るのだ。
その時のボクは最終選考に残った喜びより、ボクの処女原作を、あの鬼の小池社長が読むという事実に震えおののいた。
ものつくりにおいてはそりゃあ妥協なく凄まじく怖い人だったのだ。小池一夫師匠は。
ボクの処女原作が小池一夫社長に読まれる。それが、どのくらい怖かったかとういうと、当時の小池社長は社員に対して鬼のように厳しかったのだ。
面接以来、直接、接する部署ではなかったのだが、社長が編集部や秘書に対する場面は何度か盗み見ていた。
小池社長の叱責、詰問で失神した秘書はボクが見ただけで二人はいる。言葉だけで人を失神させるとは信じられないだろうが、膝つめ問答。理詰めで責められ、逃げ場がなくなるのだ。
そうなると人は失神するのだ。
後に秘書課にいたOBに聞いたら、失神したのはもう二人いたらしい。そのくらい怖かった。
単行本編集長が、子づれ狼の単行本の表紙の仮案を提出した時、社長の眉が曇り、編集長を呼びつけた。
そして、詰問が始まった。
「なぜ、表一が拝一刀なんだ?」
「え?それは、当然、主人公だからです」
「じゃあ、お前は小島剛夕の描く浪人の区別がつくのか?」
「え、いえ、それは」
「子連れ狼のキャラの中で一番立っているのは誰だ?」
「は?」
「大悟郎に決まっているだろう!」
「あの髪型の大悟郎と乳母車が表紙にあれば誰だってあの映像化された大ヒット作の子連れ狼と分かる。なぜ、それを表紙にしない’。なぜ、そこに思い至らない!」
「そ、それは・・・・」
「お前が怠慢だからだ。サラリーマンだからだ。本気で作品を売る気がないからだ。俺は作家だ。作家は自分の作品を本気で誠心誠意売ろうと考える。お前もそれくらい考えろ。感じるな。雰囲気で物作りするな。とことん考えろ。」
「は・・」
それと表4な、拝一刀の愛刀、胴田貫にしたのは、まぁいい。」
「ありがとうございます」
「だがなぜ、絵だ?」
「え」
「たとえ、小島剛夕の絵だといえ、本物の刀の迫力には及ばない。
見れば素人にも分かるものだ。本物の国宝級の刀の写真にしろ!」
「ははっつ」
ということで、すべて締め切り直前にやりなおしになる。
単行本編集長は、小島剛夕先生に書き直しをお願いし東奔西走して刀を借り受けスタジオ撮影。
その際に刀を抜くのを間違えて親指が二つに切れてしまうという事故まで起きる。
そこまで小池社長のプレッシャーは強かった。
さぁ、そんな物作りにとことんこだわる小池社長が、ボクの原作を読むというのだ。
恐れおののくボクであった。
当時、シップでは、三階の社長室から小池一夫社長が降りてくると、二階フロアの二十数人が、立ち上がって直立不動でこれを迎える風習があった。たとえ電話の途中でも切ってしまう。
おはようございます!との声を全員で叫ぶ。
それくらいの専制君主だったのだ。
賞の最終選考に向けてビクビクしながら毎日を過ごし、経理部で仕分け伝票を損益計算書に移していたとき。
全員が立ち上がる気配が背後でして、おはようございます!との声があがった。
ガチャ、と経理部のドアが空いて、身長180センチ以上の巨躯が入ってきた。
経理部全員が慌てて立ち上がる。慣れてなかった。
社長が経理部に入ってくることなど、ほぼなかったからだ。
「おい、この某社経理部経理課、鍋島雅治というのは、ひょっとしてお前か鍋島?」
ボクが書いた原稿を突き出した。
「あ。はい。そうであります」
体が硬直した。
ついにきた。
「読んだ。まぁ面白かった」
「あ、ありがとうございます」
「選考会議で推してやる。もし受賞したら、賞金半分よこせ」
「え?あ、はい」
「バカ冗談だ。わはははは」
「お前、また書けよ」
「え?」
「書くのをやめるな 書き続けろ」
「書け」そのときの言葉がどれほど重かったか。
以来三十五年ボクは書き続けることになる。
「書けよ」小池師匠の言葉は呪いであり光だった。
巨匠、小池一夫の背中を追って追い続ける呪いであり、光になった。
結果、小池師匠の推しのおかげもあって大賞100万の次の準入選50万をもらえた。

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そして、シップ社内でも「書けるやつ」との評価がされて、経理以外の仕事も増えることになる。
万が一の行幸を考え、もし目にとまれば、単調な経理から抜け出しクリエイティブな仕事をしたいという思いを込めてあえて「某社経理部経理課」というプロフィールを添付した成果だった。
当時のシップにはまるで磁石に引き寄せられるように社長の魅力に引き寄せられ集まった才能あるキャラクターが数人いた。
中には天才と思えるアイディアマンもいてブレーンとして社長を支えていた。
その末端にボクも見込まれたのだった。

スタジオシップでは、常に五人から八人の秘書がいて、朝10時から深夜まで小池一夫社長の世話をしていた。社長のスケジュール管理。作品の資料作り。出版社との交渉、原稿の受け渡し。ホテルと社屋を行ったり来たりしながら、朝一本、昼一本、夜二本、毎日原作を書く社長は超多忙で、多い時には週間8本の原作を手がけていた。人間業ではない。息を吐くように原作が書けないと、その域には達しない。実際ストーリーに詰まることは無いと豪語していた。その間に、ゴルフに行ったり、会社の運営と様々な決済。劇画村塾の講義。神戸でゴルフのレギュラー番組。まさに超人のような働きっぷりだった。これを全力でフォローするのが秘書課の役目だ。
当時、秘書課長曰く「俺らはオヤジの投げる無茶な球をひたすら受け止め続ける仕事だ」秘書課だけは小池社長を「オヤジ」と呼んでいた。
まるでヤクザのようだが、まさしくそんな感じの家長制度のような雰囲気があった。「社長命令五分以内」が原則でどんな命令にも五分以内で対応しなければならない。
いつもビリビリするような緊張感に包まれていた。
社長が神戸に出張するときは、秘書全員で運転手の運転する社長車を「いってらっしゃいませ!」と見送る。
そして大急ぎで資料の入ったトランクを積んで別の車で東京駅
に向かって社長の到着を待って出迎える。二人の秘書が神戸に随行するためだ。社長車の運転手はそれをわかっていてやや遠回りで東京駅に着かせるのだ。
思えばまったく馬鹿馬鹿しいが、それが慣習になっていた。
社長をいい気分にさせていること。それも秘書課の仕事なのだ。
でないと、大変な事が起こる。
出勤時、玄関に熊の縫いぐるみが置いてあると、それは緊急事態の知らせだ。社長のご機嫌が悪いことをあらわす。社内すべて厳戒態勢。誰も一言も喋ってはいけない電話も禁止。全員、身を潜めてすごす。あの緊張感は、忘れられない。
ある秘書ははじめての神戸について行って深夜にサーティンワンのアイスを買ってこいと無茶をいわれたりもしそうだ。出発間際の新幹線で冷凍みかんを買ってこいと言われて慌てて買いに行ってなんとか間に合ってはぁはぁ行ってると、社長は丁寧に皮をむき筋をとって。二つに割り、半分を差し出して笑顔で「喉が渇いたろ食え」と言われたらしい。そういう無邪気な所のある人だった。
ある日、社長が二階のホールで秘書たちに情報収集の大事さを語っていた。お前らより新しい情報や知識を俺の方がよほど知っている。と、確かに社長はオツサンむけの大衆雑誌から若者むけの雑誌までよく読んでいた。ある週刊紙の記事を見せたくて社長ほ秘書の一人に、言いつけて社長室にあるホットドックという当時人気のあった若者向け情報紙を持ってこさせようとした。
「俺の机の上に今週のホットドッグがあるから持ってこい。 」と、ところが、あいにくそれは社長の思い違いで机の上には雑誌はなく、かわりに別の物がたまたま、あった。
しかし社長の命令は絶対で黒いカラスも白いと言わねばならない。口答えなど許されない。
新人秘書はけげんな顔をしながら、さすがの社長も言いまちがえたのだろうとそれを持ってきて「社長!ホットドッグをお持ちしました!」しかしその手の中にあって差し出されたのは、あいにく社長の食べかけの昼飯のハンバーガーだった。
僕らは秘書がハンバーガーを押しいただいて来るとこから必死で腹をねじってを笑いをこらえていた。
社長はクスリとも笑わず、ハンバーガーを受け取り、大真面目に言ったものだ。
「いいかお前は、物を知らない。だから教えてやる。それはハンバーガーだ」
僕らは慌てて部屋を飛び出して大笑いした。
そのように秘書や社員は皆、社長を怖れ、そして私淑し、愛していた。
怖いだけではなく間違いなく人間的な魅力のある人だった。
深夜、経理部で残業していると、「鍋島、社長が呼んでいるぞ」
呼ばれていくと「鍋島お前にもチンチロリンを教えてやろう」社長は機嫌よくそう言って、秘書たちとボクと嬉しそうにサイコロを振った。そしてイカサマのやりかたを教えてくれた。


当時、アーチストリーグといって漫画家たちの野球リーグがあって水島しんじ先生やちばてつや先生たちの組んだ野球チーム数チームがシーズンになると集まって野球大会を行っていた。

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この大会前日、僕は小池社長に呼ばれて、「お前は応援団長をやれ」と言われた。高校が商業高校だったので男子が少なく男子は全員応援団なり、応援のコールとタテと言われる振り付けをたたき込まれていたのだ。それを社長の前で話したことがあるため、それを覚えていての直命であったのだろう。どんな命令だろうが、社長命令は絶対である。
おさらいと練習を繰り返し、大会当日、僕は分厚い学生服で炎天下の中、声を張り上げ、タテを舞った。得意技を存分に披露できた・・・・・のは良いのだが、現役高校生と酒呑みで不健康な業界人では体力がすでに違った。
僕は動悸をおこし、目眩がして倒れてしまった。今で言う熱射病だったのだろう。その時、いち早く僕を抱き留めてくれたのが、なんと監督役の小池一夫だった。秘書に大急ぎで自分も愛用している心臓の漢方薬を持ってこさせ、僕を抱きおこして手づから薬を飲ませてくれたのだった。
「バカだなお前は。なんでも全力すぎる。少し手を抜くことも覚えろ」あの鬼の小池社長があきれて笑っていた。以前、単行本編集長に言ったのと真逆の事だが、優しい笑顔だった。
他にもたまに「鍋島、I、竹刀を持って庭に出ろ」と声がかかり剣道経験者だった僕たちが庭に出ると、真剣を持った社長が「かかってこい」と言う。かかって来いったって向こうは真剣である。ビクビクしながら打ち込むと社長は身を交わして、竹刀を撃ち払う。それを何度か繰り返すと社長は「よし、わかった」と言って満足げに社長室に執筆に戻るのだった。
あれは原作の参考、アイディアのためだったのか、
単にストレス解消だったのか。
今となっては楽しい思い出である。当時はどんな形であれ、巨匠、小池一夫の創作の役に立つ事が、たまらなく嬉しかったのだ。
賞を取って書ける奴という評価がされていらい、社長はたびたび突然、経理部を訪れるようになった。
「鍋島、あの作品の続きな、お前ならどうする?」
「俺が打ちっ放しから帰ってくるまでにアイディアを出してみろ」
「はい!」
そして作品の前回を読んでみると決まって主人公は絶体絶命の危機なのだ。そこをなんとかかんとか、逆転のアイディアを考えA案B案C案と考えて、社長が帰った時に差し出す。
すると社長は、決まって、
「ほう、このB案は俺が考えていたのと同じだ、なかなかやるな」と褒めてもらえる。
それが本当だったのか、ボクのアイディアが採用されたのかは分からない。でもこの上ない名誉に感じていた。
そして社長の創作を支えるのは秘書課だけではなく、欠かせないブレーンが、二人いた。
これは、書こうかどうか大変に躊躇し迷ったのだが、真実ではあるし、当時のスタジオシップを語る上で、欠かせない大事な事なのでそのタブーに踏み込もうと思う。

当時、シップの社員は作画部、編集部、総務部、経理部、販売部合わせて100人弱。小池社長が最年長で50代半ば。40代が二人。残りは皆、20代から30代。思えばみんな若かった。
会社ごっこをしていたようなものだ。
経営者と呼べる人はおらず、小池社長の思いつきをみんな全力で実現するという感じで動いていた。
猛烈な作家活動をしながら、小池社長は様々な事を思いつき細部に至るまで指示をした。
小池社長の思いつきに振り回される喧騒と熱狂の日々だった。
そんな中、困った事や社長の決済がなかなか降りない時、みんなから相談を受けるのが、社長のブレーンの一人、Sさんであった。Sさんは、表面的には皮肉屋で、意地悪で、口が悪い。若い者が相談に行くと冷たい扱いをするのだが、それでも食い下がってくるガッツのある者には実に面倒見がよくて、色んな事を教えてくれた。ボクも何とか懐に入れてもらって、鍛えられ、かつ可愛がられた。あまた作家を輩出した劇画村塾の事務局長でもあり塾生には世話になったものの多い。
小池一夫のメソッドを体系化し、漫画の描き方を記した劇画村塾のテキストを編集製作したのもこのSさんである。これは実によくできたテキストで写真も多く、すばらしくわかりやすかった。今でもボクの座右の書である。
当時取引のあった各社編集部では、秘伝の書として、代々引き継がれている所もあるとのちに聞いた。
ボクは原作を書くと、必ずSさんに読んでもらって、講評を求めた。ボクには小池一夫師匠とSさんの二人の師匠がいると思っている。
そして、小池一夫のブレーンにはもう一人Oさんという人がいた。Sさんが職人気質だとすれば、Oさんは天才的なアイディアマンだった。

小池一夫、二人のブレーン、SさんとOさんの特別な任務。
それこそが、絶対社外秘のタブーである「代原」である。
代理原稿、つまりは小池一夫の名の下に、小池作品の原稿を書く仕事である。
社長は連載当初、物凄い情熱を持って作品作りにあたる。もともと企画を考えるのも、書くことも大好きなのだ。書いていないと死んじゃう病なんじゃないかと思うくらい。
その情熱と才能は凄まじく、連載当初はどの作品もアイディアに満ち溢れ、物凄く面白い。が、しかし、作品が軌道に乗ると、飽きてしまう作品も出てくる。
その続きを引き受けて原作を書くのが「代源」という仕事だった。それを、SさんとOさんはやっていたのだ。
それらを差配するのも秘書課の役目だった。
ある時、秘書課長が深刻な顔で経理部に現れた。
「困った。Sさんがおたふく風邪でダウンして代原が書けないそうだ。Oさんも連絡つかない。時間がない」
非常事態である。
「こうなったら、鍋島、お前が書け」
ボクはおののいた。ボクが小池一夫の代わりに原作を書く!」
「イヤ無理ですよ。そんなの!」
「お前しかいないんだ!とりあえず五時までにかけ!」
二時間くらいしかない。秘書課長の切羽詰まった気迫に押され
もうやるしかなかった。
ボクは別室に篭って書いた。書き上げた原稿は漫画家さんや編集部やまったなしの写植屋さんにファックスで送られた。
「編集部も無事通過し。漫画家さんも面白いと言っている」
全身の緊張が溶ける思いがした。
そして、以来、たまにSさんが病気になったりOさんが会社を休んだ上に連絡がつかず「代原」が書けない時。秘書課長からの依頼でボクがこの「代原」を書いた事もある。
つまり、海のような小池作品群の中に、僅かな一滴か二滴、ボクの書いたものが混じっているのだ。そう思うだけで光栄であり、得難い経験だった。
この場合の代原の難しいところは、SさんやOさんがそれまで書いた路線を大きく踏み外して変えてはいけないというところだ。
主人公たちを危機に陥れ、読者をドキドキさせ、振り回し、そして画期的なワンアイデァでこれを切り抜け、実質的には変更なく、もとの状況に戻して、バトンを返さなければならない。これは、なかなか至難の技だった。が、我ながらよくできていたと思う。
あれで確実にボクの腕も鍛えられた。
小池一夫のブレーン二人。
職人気質のSさんが右腕だとすれば、天才肌のOさんは左腕だった。
そのアイディアマンぶりの逸話は多い。
ある時、小池社長がビッグコミックでの新連載のタイトルを考えていて「フライング クーリー」というのを思いついた。
香港の荷揚げ人夫の事をクーリー苦力と言う。
これについて意見を求められたOさんは、即座に返した。
「社長、逆にしてクライングフリーマンというのは如何でしょう?」「どういう意味だ?」「自由を求めて泣く男。人を殺すと必ず涙を流す殺し屋の話です」「それだ!」ほんの数秒である。Oさんは条件反射的にアイディアを出すのだ。
このアイディアに誘発された小池一夫は、物凄く面白い第1話を書き上げた。あの名作、大ヒット作はこうして生まれたのだ。
物作りはこうした事があるから面白い。
また、ある時は新雑誌を発行しようということになった。
この時、Oさんが新雑誌の編集長を務める事になった。ボクもアイディアマン兼雑誌の予算を組む経理マンとして編集会議に参加していた。色々と進行する中、なかなか超えられないハードルがあった。新雑誌の名前がなかなか決まらない。様々な候補をあげるのだが、社長決済が降りないのだ。
発行予定の春が近づいてくる。
案も出尽くし、みんなが嘆息するなか、Oさんがやけになって言った。
「もう、春に出すからコミック・ハルでいいんじゃねぇかぁ?」
と、その時である。
社長が急に現れた。
「雑誌名は決まったか?」
「あ、はい、その、コ、コミック・ハルです!」
苦し紛れにOさんが言うと、社長が怖い顔をして言った。
「まさか、春に出すからっていう安易な発想じゃあないだろうな」
みんなが身をすくめた。
しまった。聞かれていた。
その時にOさんは即座に答えた。
「いえ、ヒューマン、アクション、ラブ。漫画の三大要素の頭文字を取って、HAL この三本柱がこの雑誌のコンセプトです」
みんな呆気に取られたが社長は満足げにうなずいて
「それだ」
あんなに悩んでいた雑誌名が瞬間で決まったのだった。
追い詰められると必ず土壇場で妙案が出る。
それがOさんだった。
この時発行されたコミックHALに出したボクの企画、当時人気だった女性プロライダー、三好礼子さんの自伝的漫画、レイコがボクの商業誌デビュー作となる。
これもOさんからの依頼だったので、ボクの作家としての生みの親でもある。冗談好きで作家を発掘する才能がありこれは後々にも証明されることになる。

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当時販売部にいてボクと一緒に集英社青年漫画原作賞に応募したS君にも暴走族漫画の原作を依頼して単行本を出したりもした。
しかし、このOさん、欠点があって、ものすごーくルーズなのである、きまぐれに退社してどこにいるかわからなくなったり、会社を何日も休んだり。連絡がつかなかったり秘書課をイライラさせていた。
捻挫をして出てこられないと、数日欠勤して久しぶりに足をひきずるように出勤してきたとき。仕事終わりに皆で飲みに行こうとなって、Oさんは、タクシーを走って追いかけて止めたと言う。
捻挫じゃなかったのかよと皆を呆れさせた。
その後色々あって、後に、Oさんはずっと会社に出てこなくなった。あの人にもう少しだけ生真面目さがあったらきっとひとかどの作家になっていたろうと思う。そのまま会社にいたら名編集長になっていたろう。素晴らしい才能を無駄にしてしまう。そういう人もまたこの業界にはいるのだ。

一方、そんなあれやらこれやら、多岐にわたる仕事をこなす目まぐるしい日々のなか、ある日、僕は直属上司のN澤部長から呼び出しを受けた。これはちょっと調子に乗りすぎたかだろうと首をすくめていたがN澤部長の話はとんでもないことだった。

入社して一年みたない僕を主任に抜擢するというのだ。僕はびっくりして、これを頑なに誇示した。
先輩社員数人抜きの出世であり、おこがましいこととはなはなだしい。
しかも、僕の所属する経理部にはN澤さんの他二名の先輩女子社員と一名の年上の先輩がいたのだ。このH先輩は謹厳実直。まさに経理部の柱という方だった。ただふだんの真面目な性格とうってかわって宴会の時は女子社員のお尻を撫でて回るのが玉の瑕だったが、他の事では社員の信頼も厚かったのだ。彼を飛び越えて僕が主任になれば他の社員の反感は明らかだった。それになにより、狭苦しいいルーティーンの経理の仕事より、あれこれとした雑務や編集部の補助の方が僕にはずっとたのしかったのだ。
トーナメントの手伝いしたり、社長の乗りもしないベスパを修理したりゴルフ場に納品にいったり当時アルバを販売していた毎日新聞と部数交渉にいったり、社屋の改築の企画を考えたり。社長の執筆の手伝いをしたり。そんな仕事の方が楽しかったのだ。
なので、僕は一度、経理部主任職を頑なに誇示した。
しかしそこで降りたのは「鍋島君。これはK部長からの事例なのだ」
N部長の重々しい一言だった。
これは有無を言わせぬものだった。
当時、小池社社長の身の回りには三人の女性がいた。
一人は「奥さま」と呼ばれもう一人は「妹様」と言われ「奥さま」の小池社長の郷里時代からの幼馴染であるとも、小池社長は養子でありその養家の実娘でもあるとうわさされていた。
彼女たちは小池社長のご飯や衣服や掃除のお世話をいていたように思う。
もう一人のK部長は会社の総務部長の地位についていた。
このK部長は実質会社の実権を持っていて、人事権の他あらゆる権力を持っていた組織上はナンバー2である経理部長のN部長も古参のブレーンSさんも、かなわなかったと感じていた。
そのK部長の気まぐれな人事部長と会社運営は時々社員を迷わせた。K部長突然あらわれた社長の「妹」とも言われ。実は愛人ではないかともうわされた。
ともかくスタジオシップの「女帝」であることにはかわりはなかった。小池社長自身彼女に頭が上がらなかった節がある。
そのK部長が何を気に入ったのか「鍋島君を主任に」と言えばそれは揺るぎもないことなのである。
予想どおり、鍋島主任に風当たりは強かった。それまでは気軽に用事や根回しに使かかいにかち新入社員が自分より上席になったのだから。
「おい鍋ちゃん。あ、主任さんか、やりにくいな」なんて嫌味をいわれたこともある。それでも僕は変わらぬ腰の引くい態度で御用利きを貫いた。
便宜はとことんはかる。でも鉛筆一本。インク代一本妥協しなかった。やれることはやる。だが引かぬときは引かぬ方針を徹底した。単行本倉庫に出向いてパレット(荷物を載せる板)の上の本の組み方までうるさく指導した。僕は大学時代倉庫会社でバイトしていたのだ。
鬼の編集長とも相変わらずやりあって彼女の逆鱗にふれ「あなた何様のつもり!」と怒鳴られたときはこう答えた「おたがい様です。雑誌を成功させるつもりにおいては。どっちか抜けたら雑誌つぶれますよ。とそう言ったら彼女は一瞬絶句して「いい根性してるわね」といい以降、真剣に向き合ってくれるようになった。
そのうえ。編集長の抜擢で雑誌主催のアルバトロスビュートーナメントの主要メンバーに抜擢されて、すいぶん可愛がられた。
また。そのころはまだ会社にいてコミック編集長だった前述の天才ブレーンOさんの「鍋島が漫画編集部に欲しい」との進言とこれを受けてのまたまたK部長の鶴の一声により、僕は入社以来、念願の経理部主任兼ねるコミック編集部デスクという誠に奇妙な前代未聞な役職につくことになる。
あ、くわえていえば、実質総務部総務部課雑用係。後にN沢部長が常務に出世したのでその秘書も兼ねる。である。
それにくわえて小池社長のブレーンを時々。
・・・・・・・あの頃の僕はいったい何者だったのだろう。
とにかくその職務は多岐にわたり、多忙を極め、
後に疾風怒濤、栄枯盛衰の日々が僕を待ち受けていた。

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