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映画「存在のない子供たち」から見えるもの

お盆休みはそれぞれ別の視点で気になっていた映画3作品を鑑賞。天気の子、ライオンキング、存在のない子供たちの3つ。

前者2つも素晴らしかったけれど、「存在のない子供たち」を最後に観たこともあり、その圧倒的な登場人物の存在感、リアリティ、扱うテーマの重さと深さの前に霞んでしまった。また、この衝撃を残しておきたいのでここに書いておこうと思う。

存在のない子供たち公式サイト http://sonzai-movie.jp

設定は中東のとある国。作品で扱っているテーマは児童虐待、人身売買、性暴力、移民問題、人種差別、不法滞在と重いものばかり。目を背けたくなるが、実際にこの世界で起こっている現実だ。

冒頭、貧困層の居住区を上から撮影したシーンから始まる。古タイヤらしき黒い丸いもの、使われなくなった家具、判別のできないゴミなどと一緒に雑然と置いてある統一感のない屋根が適当に配置されたパズルのように並ぶ。その合間を狭く縫うように入り組んだ路地。

上空からの光景だけで、ここは貧困にあえぐ人々が住む場所なのだとわかる。どの角度から見ても貧困は貧困なのだと言うように冷酷に見える。そしてその中の狭い一角の部屋に住む子沢山の夫婦。主人公の少年ゼインを含め、子供たちは学校に通う様子はなく、幼いながらも其々に路上でジュースを売ったり親の手伝いをしたり仕事に従事している。

ある時、妹が11歳で知人の家に妻としてもらわれていく。もちろん親の意思で。それを止められなかった事をきっかけに少年は家を飛び出し、放浪の日々が始まる。最終的にはこんな場所を出たいと出国ブローカーに出すための出生証明を取りに家に戻る。そこで自分の出生証明すらないことと、ある事実を知ったことで「くそったれな大人」をナイフで刺し、ゼインは刑務所に収監される。

そしてその刑務所の中から「両親を訴えたい」と訴訟を起こす。裁判官から「何の罪で?」と尋ねられた少年は、「こんな世界に僕を産んだ罪」と哀しい瞳で訴える。そして「育てられないなら子どもを産むな!」と悲痛な声で叫ぶ。

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この作品は、社会から置き去りにされた人々、ことさら弱者として影響を強く受ける子どもの生きる姿というテーマで描いた「万引き家族」や「誰も知らない」に通じる息苦しさがある。

その2作と決定的に違うのは、登場人物に女優でもあるラバキー監督がゼインの弁護士役で登場している以外は、俳優経験者が出ていないことだ。

ラバキー監督の意向で登場人物は全て配役と似た境遇の人たちを探し、演じているということだ。このリアリティが未経験者が演じていることがにわかには信じられなかったが、人は役に近い境遇を持っていれば、演技ではなく記憶を辿ってそれを再現できるのだと思った。

主人公の少年ゼインを演じた ゼイン・アル=ラフィーア自身がレバノンに逃れたシリア難民の子どもだそうだ。観ていただければ、これが演技未経験の子どもなのかと、その存在感に度肝を抜かれると思う。彼がこれまで感じてきたであろう様々な苦難、社会の理不尽さ、憤りが、彼に偽りのないこの主人公であるゼインの表情、真実の言葉を紡ぎ出している。

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監督が3年かけてリサーチしたリアルなレバノンのシリア難民の現状。遠く離れた国の出来事だとしてしまうのは簡単だ。だけど、日本でこれらのことは決して他人事ではない。特に日本で全ての子どもの人権が理想的な状態で守られているだろうかといえば、そうではない。

だからこそ、社会に投げかけるべきメッセージとして「万引き家族」や「誰も知らない」で見えない人々、その影響を色濃く受ける困難な状況にいる子どもたちの事が描かれた。

今年は子どもの基本的人権を国際的に保障するための“子どもの権利条約”が採決されて30周年となるそうだ。日本は民法上でも子どもの権利、人権を守るという意味においてまだまだ考え、向上させる余地がある。

虐待や犯罪に巻きこまれた子どもの報道も多い。現場の方々は努力されていても、子どものための社会的投資が全く足りていないし、その問題について国として優先度が低く見過ごされているからにならないと思う。現状に甘んじてしまっている子どもの権利ついて今いちど考え、見直す必要があるのではないだろうか。

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