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算命学余話 #R59「恥と名誉」/バックナンバー

 今回の算命学余話は、前回のブログ記事で取り上げた『罪と罰』から派生した平野啓一郎氏の分人主義の展開をヒントに、現代社会を脅かすテロの背後に存在する恥について、算命学の見地から考察してみます。鑑定技法の話ではありませんが、五行や五徳の性質を理解する一助となる内容です。

 前回の記事では恥と暴力、そして分人と対話という四者の関係性を具体的に説明できなかったので、今回はそれを試みます。
 東日本大震災から今月でちょうど七年が過ぎ、各地の追悼式の模様が報道されました。しかしその報道を見たからといって、当事者でもなければ、気の毒には思ってもわが身の如く涙を流して悲しむ人はいないと思います。それはその人が冷たいからでしょうか。そうではありません。亡くなった方が赤の他人だからです。今回のテーマに沿って言えば、「対話」のなかった人であり、対話がないということは「その人」に向けた分人を、一視聴者に過ぎない他人の我々は持ち合わせていないということです。

 もし家族が死んだとしたら、よほど特殊な家庭環境でもない限り、遺族は嘆き悲しみます。故人と交友の深かった友人や同僚なども悲しむでしょう。なぜなら生前の故人と対話を積み重ねたことで、故人に対する専用のペルソナともいうべき分人を長年持ち続けてきたからです。
 しかし顔見知りというだけで大した交流のない相手だったら、お悔やみは申し上げても悲しみは感じないのが普通です。ましてや一度も面識のない、互いの存在さえ知らない赤の他人であったなら、ニュースの死亡事件程度にしか感じられない。更に海の向こうの、我々には縁のない宗教紛争で命を落としている人々のことともなれば、事件の残虐性に衝撃を受けることはあっても、その死亡報告そのものを、死者の遺族のように嘆き悲しむことはありません。

 こういう話は遺族の前ではしにくいせいか、大っぴらに語られることはありませんでした。平野氏が一流の知識人だと思うのは、こうしたデリケートな問題に切り込む勇気とそれに耐えるだけの論拠を持っているからです。彼に言わせれば、震災を毎年、場所によっては毎月繰り返し思い起こす行事が行われ、それが広く報道されるのは、震災の被害者が顔見知りでなく、対話がなかったので分人も形成できず、そのためその死を悲しむことができない多くの日本人が、悲しみに暮れる遺族を慮って「努力して共感しようとしている」姿だということです。
 さて、そんな努力の末の共感なり悲しみなりを、遺族は赤の他人に期待しているのでしょうか。多分そんなことはないと思います。共感してほしいのはそれこそ対話のあった身近な人々に対してであり、得体の知れない見ず知らずの人にまで故人をとやかく言ってほしくないというのが本音ではないでしょうか。ここに報道と実情のギャップがあるように思いますが、皆さんはどのようにお考えでしょう。

 算命学は自然思想ですから、こうした「努力して共感しようとする」行為はあまり意味がないと考えています。自然に悲しいと思えたら泣いたり追悼したりすればいいのであって、無理やり悲しいと思ってもその追悼はまがい物になってしまう。そんな追悼などする意味がない、というのが算命学の冷ややかな見解です。
 共感に偽物はないはずです。偽物の共感とは、つまり共感してない、共感を装っているということです。一体誰に対して、何の為に共感を装う必要があるのでしょう。共感は感情であり、感情は努力して得るものではありません。努力して得られるのは知識や技術、場合によっては説得という他者の理解も努力によって得られるものではありますが、愛情でさえ、努力によって意図的に呼び起こさなければならないとしたら、それは純粋な愛とは別物の、何か他の目的を伴った不純な愛情です。そんなまがい物の愛情さえも真の愛情といっしょくたにしてしまうものだから、世の中に愛をめぐる齟齬や闘争、要するにカン違いが絶えないのではないか。算命学はこのように冷たく見放しています。

 平野氏の分人思想を取り入れるのなら、我々が真の共感なり愛情なりを感じるには、その相手と交流し、対話し、分人を形成しなければならないのです。そして相手もまた、我々に対する特別の顔である分人を形成し、交流を重ねることで互いの分人が重なり合ったり混じり合ったりする。そうすることで初めて共感できるようになるのです。そうなればもう赤の他人とは言えない。一方が死ねばもう一方は自然に悲しむ。まるで自分の身体の一部を失ったような痛みを覚えるからです。それが分人の及ぼす力なのです。

 算命学的表現をするなら、これは気の交流とか対流とかいうことになります。算命学には分人という思想はありませんが、宿命の中に陰陽五行の気の巡りがあるように、家系の中に気の流れがあるように、現今に生きる他者との接触の中にも気の交流がある。巨視的に見れば、世界の果ての赤の他人であっても関係性が皆無とは言えないのですが、日常的なレベルでは、一生顔も知らずに過ごす赤の他人は、こちらの人生に及ぼす影響は極めて小さいので、カウントするには及びません。それよりもっと大事なのは、今目の前にいる、こちらの人生に直接コミットしている人たちです。この人たちとどう付き合っていくか、或いは付合いを断つべきか、そういうリアルな現状を正しく認識して有効に作用させる方策を練ることが、算命学の適切な活用法です。

 さて、ここからは恥と暴力の話です。「あらゆる暴力は1つのイデオロギー(又はアイデンティティ)に統一しようとすることで発している」という平野氏の見解によれば、分人である人間は通常いくつかの顔=ペルソナを持っているので、その1つでも相手と対話できさえすればコミュニケーションは可能だということです。
 「政治的見解が真っ向対立している相手であっても、音楽の話で意気投合できれば対話は可能である」というエピソードの通り、人間を「個人」として捉えると、その個人が気に入らないともうどこにも取りつく島はなく、没交渉で決裂するしかない。しかし人間が「分人」であるとするならば、個人という全体を相手にする必要はなく、その人の個性の一部分だけを取り上げて、その狭い部分を窓口に対話を続ければ、いずれ個人総体に対する理解も進む可能性は広がるし、更には共感できるようにもなるかもしれない。

 「順番を間違えると失敗する」危険性はあるものの、いきなり100%の個人を狙うのではなく、1%の共通項である分人から取り掛かることで活路が見出せる。その例が、『罪と罰』の意固地な主人公と、その意固地に1%の窓口からやんわりと風穴を開けたソーニャとの対話でした。
 『罪と罰』が読み継がれているのは、その物語や登場人物があまりにリアルだからです。その普遍性は時代を超えており、作品の発表から150年経った今日の社会問題をそのまま映した鏡のようです。若者の鬱憤はいつの時代も変わらない。そしてそのはけ口には、しばしば暴力が用意されている。この誘惑に屈する若者とそうでない若者の差は何なのか。
 この点について、算命学の五徳である福寿禄官印から官、つまり名誉運に焦点を当てて考察してみます。

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