算命学余話 #G51 「陰陽、例外、非日常」/バックナンバー
最近、作家の坂口恭平が自らの躁鬱病体験を元に『躁鬱大学~気分の波で悩んでいるのは、あなただけではありません』という本を出しました。
私は十年程前に「モバイルハウス」という構想を提言した建築家として坂口氏の存在を知りましたが、その時の肩書きは「建築家・哲学者」であって作家ではなく、そんじょそこらのお笑い芸人より余程笑えるユニークな人物として心に留めました。その主張は、「現代人は自分の(一軒)家を手に入れるために、土地を買い、そこにベタ基礎を打って動かなくし、その上に画一的な〇LDKの間取りの家を建て、35年のローンを組む。それは35年間その場所に縛りつけられた奴隷となることである。完済時には老齢となって人生はほぼ終わっているが、それ以外に選択肢のない住宅認識は正しいのか」というもので、この住宅慣例に真っ向から対立する動く住居「モバイルハウス」を「車両」として三万円程で自主制作・所有し、駐車可能な場所にいつでも移動できるノマド的生活スタイルを考案。その頓狂な姿はドキュメンタリー映画にもなりました。当時は既にWiFiも普及し、電波が拾えれば「車両」の中でも十分リモートワークができましたから、コロナによってようやくリモートワークの広まった令和の時代を先取りしていたわけです。
その後何冊か本を出していることは知っていましたが、今回初めて彼が躁鬱病であることを知り、その型破りな発想の源泉がどうやらこの病気、本人の言によれば「体質」にあるらしいことが『躁鬱大学』本文から読み取れました。
私は躁鬱病ではないし、単体の躁も鬱も自覚したことはありませんから、正直な感想として、坂口氏が主張する躁鬱人の悩みには共感しませんでした。また私は昔の職場で躁鬱ではなく鬱病の社員に遭遇し、その人の社会性を欠いた振舞いには大いに迷惑した体験があるため、躁の人はよく判らないながらも、鬱の人には否定的な印象しか持っていないことも、共感できない一因だと思います。
昨今ではテニスの大坂なおみ選手が鬱病を告白して、その身勝手な振舞いの言い訳とも取れる発言に鼻白んだばかりです。精神科医らは鬱病患者を擁護して「彼らを『鬱自慢』とネットで批判する人達」が多いことを嘆いていましたが、私もしっかり「そういう人達」の側の人間です(鬱自慢とは言い得て妙だと膝を打ちました。)それは私自身に鬱病経験がなく、且つ周囲の鬱病の人のわがままを快く思っていないからでありますが、それ以前に、今の社会が鬱なり躁鬱なりの人間を、周囲と足並みを揃えることのできない「訓練の足りない人」や「我慢の足りない幼稚な人」として低く評価するという背景があります。大多数の人間は訓練・我慢ができているものだ、それが普通だ、という前提が社会にはある。
しかし、周囲と足並みを揃えることのできる大多数の人々といえども、生まれつきそうだったのではなく、実際は子供の頃からそれなりに自己を「訓練」し「我慢」して、周囲とどうにか折り合ってきたのです。私などは子供の頃から武道を習って自己抑制を訓練されましたから、尚更この傾向が強いという自覚はあります。それゆえに、それができない人を「鬱自慢をして言い逃れをしようとしている」と糾弾したくなる。「自分が我慢してきたのだから、お前も我慢しろ」という同調圧力と言われれば、そうかもしれません。
私自身の経験としては、訓練されたお蔭である程度の我慢が利く体になったし、我慢することでストレスを感じても、代わりに余暇にストレスを発散すれば済むことも学んだし、そうする習慣も身に付けました。過度のストレスがある場合には、原因であるその場を離れることも学びました。職場であれば、思い切って退職します。こうした回復術や危機回避術を身に付けることで、鬱病にならずに済むし、鬱自慢もしなくて済む。このように考えています。これは処世術と言っていい。しかも社会人としてはごく基礎的な処世術、謂わばガス抜きです。そして多くの人がこうやって暮らしているはずです。
しかし、自ら躁鬱病と診断され悩み続けてきた坂口氏によれば、躁鬱人とはこの種の我慢が極端に苦手のようです。自己抑制のブレーキが利かない。だからこそ病気と診断されるのですが、坂口氏はこれを病気ではなく生まれつきの体質だと主張し、従って薬物治療は必要なく、生き方を改善すれば済むことだ、そして世間の大多数である非躁鬱人の支配する社会の価値観に従って生きてはいけない、と提唱しているのです。これが極端で、新しい。さすがはモバイルハウスの提唱者です。
私も運勢鑑定師として人の悩みを聞く立場ですから、鬱病の人を頭ごなしに批判してバッサリ切り捨てる態度もどうかとは思っております。そして坂口氏の言う、「今まで躁鬱病の診断はできても治療ができなかったのは、医者自身が躁鬱病に罹ったことがないからだ」という主張も、その通りだと思います。
私は自分が鬱病になったことがないので、鬱病の人の苦しみは判らないし、判らないから解決もできません。とはいえ、算命学には鬱病になりやすい星並びというのはありますから、ある程度の「診断」はできますし、「改善」方法も提示はできます。それでも、人生改善の決め手は何と言っても実際の「生き方」であって、本人の生き方がまずければ如何なる改善も見込めません。これは鬱病に限らず、算命学に係るあらゆる診断に共通することです。
算命学を使った助言をしていると、結局のところ、世間一般が良しとするところの道徳や、いつの時代にも通用してきた善意や無欲、謙虚さや誠実さ、利他や忍耐といった美徳が、実生活に「正しく」活かされている人ほど幸運を掴む、という結論に集約されてきます。だから助言も説教臭くなる。算命学は宗教ではないので、戒律的な縛りや戒めは論じませんが、時代や場所に左右されない普遍的価値基準としての「真・善・美」が生き方に反映されることで開運する、という基礎理念は、宗教的であり、道徳的なのです。
従って、毎度おなじみではありますが、「立派に生きている人ほど、算命学などに頼らず生きている」という結論になるのです。算命学に頼るのは、道に迷ったり事故に遭ったりした非常時だけでよく、何でもかんでも算命学に原因を探す生き方は、却って幸運を遠ざけます。なぜならそこにはその人自身の成長がないからです。そして成長するには、訓練や我慢といった自己研磨がどうしても必要なのです。
さて坂口氏は、こうした算命学的な穏便な道徳論や解決策とは、一見して反対の主張をしています。躁鬱人と生まれたからには、意に添わぬ我慢や努力はするな、と言っています。そしてそこには、躁鬱人ならではの体験に基づいた知見がある。
そうしたわけで、今回の算命学余話は、この坂口式躁鬱対処法を、算命学的理論と摺り合わせて検証してみます。結論から言って、彼の主張に整合性はありますが、例外的な処理法であることは否めません。算命学には、ずばり躁鬱病を表す命式というのはなく、「おそらくこういう星並びや力学が後天的作用の影響を得て躁鬱状態を形成するのだろう」くらいの見立てしかできません。坂口氏の宿命も見てみましたが、生まれつきの躁鬱を示すほどの強烈な印はないように思います。つまりは生き方、後天的作用が大きく関わっているというのが、私の見立てです。
従って、今回の余話は躁鬱の命式を見るものではなく、「周囲と足並みが揃えられない人」は我慢や努力を放棄すべきか否か、という点を中心に、物事の価値基準について考察してみたいと思います。前回の余話#G50で論じた「スマホ脳」とも関連した内容になります。
前回の余話でも述べましたが、算命学はこの世を陰陽の二極に分け、物事には表があれば必ず裏もある、という前提で世界を見ています。従って、躁や鬱の人もいれば、そうでない人もいて、更に躁と鬱を両方兼ね備えた躁鬱の人もいる。これは全く自然なあり方であり、異論の余地はありません。(但し、病気として判断するかどうかは疑念が残ります。医者が病気と診断することによって、お金が動くからです。)
またこの陰陽は真っ二つに二分されるのではなく、両極を起点にグラデーションになっていること、その境界線は曖昧であること。そしてここが大事なのですが、この曖昧な大多数というのはいわゆる日和見で、陰陽のどちらかが持てはやされるとその一方向へ傾倒し、多数派を形成するということです。
つまり世の人の大多数は、陰でも陽でもどっちでもいい人であり、主義主張はないも同然の人です。しかし多数派に属することで発言権を増し、要するに「自分の属している方が正しい」という理屈から、社会の価値基準を形成する側に立っています。私自身、上述のように「訓練や我慢のできない大人は社会人として失格だ」と思っているのは、自分自身を「合格な社会人」だと認識し、そう思っている大多数の人達の一員であるからであって、この価値観が真理かどうかは実際のところ怪しいのです。そうなんですよ。私もまた、この件に関しては日和見に過ぎないのです。算命学ではこういう見立てになる。
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