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算命学余話 #R64「命と意思」/バックナンバー

 旧優生保護法を「信じがたい」ほど非人道的だと憤ってみせる人たちの顔があまり賢そうに見えないのは、現代社会においても胎児に障害が認められると、妊婦の意向で中絶が許されていることに考えが及んでいないからだと思うのですが、皆さんはどうお考えでしょうか。旧優生保護法を「本人の意思とは関係なく」断種したという理由で断罪するのなら、胎児の中絶もまた医師の診断という推測(誤診もあり得る)と、それを信じる妊婦という「本人の意思とは関係ない」意向の下に実施されるのだから、同じ理屈で糾弾されるべきもののように感じるのですが。両者はそれほど離れているでしょうか。それとも、まだ生まれていない胎児に人権はないとバッサリ切り捨てるのが現代社会だったでしょうか。はたまた「障害のある」胎児が悪かったのでしょうか。

 最近英国では、「残酷な」生命維持装置を赤ん坊から外すかどうかで裁判となり、判決は「外すべし」と出たため赤ん坊は両親の意向に反して、病院と裁判官の意向の下に亡くなりました。死んだ赤ん坊の意向は誰にも判りません。もしかしたら生命維持装置を拷問具のように感じて嫌がっていたかもしれませんが、それを「残酷だ」と断定したのは赤ん坊本人ではありません。そして「残酷でない」と考える両親の意見もまた、赤ん坊のものではありません。
 旧優生保護法で断種手術を勧めた医師たちも、断種せずに何世代も遺伝性障害に苦しめられる方が「残酷だ」と思ったのかもしれません。いずれの場合も、キーワードは「本人の意思とは関係なく」というところです。

 日本でも最近珍しくなくなった事件として、障害者施設や介護老人ホームでの虐待があります。以前余話でも取り上げましたが、介護する方にもされる方にも問題があると、こういう事件となって結実します。いずれも同じ「命」と「意思」にまつわる話です。
 今回の余話は、このように命や意思が自分の思い通りにならないことについて、思考を進めてみます。命は「寿」の領域、意思は「福」の領域ですので、これらが蔑ろにされる原因を算命学的観点から論じてみます。

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