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見ることも 見ないことも 選択肢を 得てこそ 初めて 近くなる。

この前美術館に行ったら「手話による美術館ガイド」なる動画が流れていた。午後から展示を見て、退館するタイミングで気づいたので、そのままつい閉館ギリギリまで見入ってしまった。

そこに立ち止まっているわたしを見て画面をのぞく人はいたけれど、動画の初めから終わりまでずっと眺めていたのは、わたし一人だった。たぶん、あの場で手話が読み取れるとか聴覚障害があるとかそういう人はわたししかいなかったんだと思う。

それでも、あの動画はわたしが頼まなくても自動で再生が始まって、わたしが頼まなくても繰り返し上映され続けた。その時間が、たまらなくよかった。

【聴覚障害がある】ということを伝えると、筆談をしてくれたり文字によるガイドを手渡してくれる施設が、昔と比べてうんと増えた。特にミュージアムなんかは障害者割引を利用して入館することも多いので、入り口でそのようなサービを教えてもらえる。

でも、その美術館の手話ガイドは、わたしが頼まなくてもそこでずっと上映され続けていた。つまりわたしは、その動画を見ても良いし見なくても良い。

展覧会というのは、大きいものから小さいものまであるけれども、大きいものはじっくり見ると半日かかるものもザラじゃなくある。じゃあ全ての展示に興味があるのかというと、わたしは、じっくり時間をかけたいところもそうでないところもある、みたいなことが多い。

「頼まないと出てこない」ようなものはそんなになくて、入場料を払った人は同じ展示を、自分のペースで鑑賞していく。

全てのコーナーに同じだけの時間を費やすわけではない。他の人たちを見ていても、サラッと流し目で鑑賞するゾーンとじっくり模様や文字を眺めるゾーンに緩急があるように見える。きっとそうなんだろう。

手話によるガイドとか文字によるガイドとか、あったらとても嬉しい。でも、「こちらに手話によるガイドがありますよ。見たかったら言ってくださいね。」と言われた動画は絶対に見ないといけない気がするし、手渡された文字ガイドは全文を理解できるほどに読み込まないと申し訳ないようなそんな気がしている。相手にその気はないというのは十二分に承知していても、何らかの特別なサービスを受けたらそれを大事に受け取らないといけないようなそんな気持ちになってしまう。

でも、あの手話ガイドはわたしが立ち止まっても立ち止まらなくてもずっと上映され続けるんだろうな、と思うととても気が楽だった。

「わたしのため」ではなく「そこにいるみんなのため」にあるものだということが、逆に目を引くというのは、なんとも不思議なことだなぁと思う。

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