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その人の発想を認めることが、その人を大切にするということ。

今朝、引っかかる会話があった。

私が夫に「娘が、難しい勉強ばかりやらされるからつまらなくて小学校が嫌だと言っている。」と伝えると

夫は「仕方ない。」の一言で片づけた。

今まで散々私を苦しめて、もうやめると言っていた一言「仕方ない。」がまた出た。

夫(45歳)はこの返しがもう癖になってしまっている。

でも今回の記事で私が主張したいのは夫の悪口じゃない。

こういう大人の悪気はないよくある返しが

自分の本当の感情が分からなくなる人間を育ててしまう原因なのだということが今回の主張だ。

みんな子供の頃はたくさんたくさん自分の率直な思いを感じ、具体的に言葉にもできたはずだ。

でも全部潰されて片っ端から全部潰されて

”こんなこと考える自分が変なのかな”

”こんなこと思う自分が悪いのかな”

”こんなこと思う自分がダメな人間なのかな”

”言ってもどうせ否定されるから、こんな思いは自分の奥深くに隠しておこう”

この繰り返しで

自分の気持ちを心の奥深くに蓋をして閉じ込めるようになって

いつからか見えなくなって

もう自分でも掘り起こせない位、地中深くに埋まってしまって

それでその子供が成長すると
大人たちは、社会は

「自分はどうしたいのか言え」

「自分は何をやりたいのか言え」って

平気な顔して私たちに迫ってくるのだ。

もう、滑稽だなんて笑うことすらできない。

私は娘にこう対応した。

「あなたが望んでいそうな内容のフリースクールをネットで

3件くらい見つけたけれど全て遠いところだった。

今そこに転校することになると、こっちで仕事があるパパとは離れて暮らすことになってしまうのだけれど・・・」

娘は「それならいい。」と言った。

私は「その内、近くにもできるよ、早く近くにできるといいね。」と言った。

娘は「そういうスクールが近くにあったらいいのにと望んでいる子、他にもいそうだよね!」と言った。

私「うん、いると思うよ。あ、そういうのを将来の夢にしてもいいんだよ。

こんな学校があったらいいなと思う学びの場を自分たちでつくるの。」

娘「私にはそんなものつくる力ないもん。」

私「同じ思いがある仲間と協力してつくれば、つくれるかも知れないんだよ。

私が今回見つけたフリースクールも、お母さんたちが中心になり設立したって書いてあったよ。」

娘「そうなんだ。」

こんな会話をした。

結果、現在の小学校に通い続けていることに変わりはないのだけれど

現在の小学校に疑問・不満を抱く娘の気持ちを認めるか認めないかで、娘の心に与える影響は大きく変わってくる。

夫は、特別”いじめ”等を受けていないなら、小学校へ行って勉強するのが当たり前だと言う。

私は思う。小学校に行きたくないと主張する大義名分が、なぜ”いじめ”のような万人が小学校に行きたくない理由として認める”有名”なものでないといけないのだろうか。

私はこの考え方のせいで随分苦労したので、この考え方に敏感に反応してしまう。

私が母から受けた虐待は骨折・火傷のような”有名”な虐待ではなかったから

母にも誰にも認めてもらえなかった。

でも私は実際に嫌だった。嫌だと主張してもやめてもらえないことが嫌だった。

「あんたが生まれたせいで兄が不幸になった」と言われ続けることも

「あんたは誰も望んでいないのに生まれてきた気持ちの悪い何だか分からないモノ」と言い聞かされたことも

あまりにしつこいから思春期の頃それに腹を立てた私が反論を紙に書きなぐり、わざと母の目の付くところに置いたら、それを読んだ母が逆切れして私に思いっきりビンタをしたことも

私がまだ小さかった頃、体を押さえつけられて、母が私の顔に唾液をたらし、その嫌がる顔を見て楽しむことも

力で敵わない小さい私(小1くらい)は、どうしたら母がやめてくれるのか一生懸命考え

嫌がるから面白がってやるんだと思い、嫌がらずに唾液を気持ち悪いけれど我慢して飲んだ。すると母は

「なんなのこの子、気持ち悪い。」と吐き捨て

さっさとその場を去ったのだ。

父が夜勤になると兄だけを連れて家を出ていくふりをして、小さな私が泣く姿を楽しむことも

私が10代後半のまだ実家で暮らしていた頃、父に貧乳とからかわれるのが嫌だと母に打ち明けたら「それを嫌がるあんたが悪い」と言われたことも

日常会話の様に顔と頭を頻繁にひっぱたかれる生活が20年近くも続いたことも

全部嫌だった。全部全部嫌だった。

でもその嫌な気持ちが認められたことは人生で一度もなかった。

他人に話してもどうすることもできないから聞かなかったことにされるだけだった。

それならまだいい。何も知らないくせに「親を悪く思ってはいけません」なんて逆に説教を始める大人も少なくなかった。

私は子供の頃、何度も思った。

私が気持ち悪かったからいけなかったんだ。

私が気持ち悪くなければ良かった。

気持ち悪くなく生まれたかった。

そんな私が29歳になり、娘が生まれた。

産むまで私は不安でいっぱいだった。

生まれた子を愛せなかったらどうしよう

生まれた子を気持ち悪く思ってしまったらどうしよう

その不安がどこからくるのかも分からないほど洗脳されていた。

産んでみて私は娘を天使だと思った。

自分で産んでみて、気持ちの悪い子なんていない

すべて嘘だったんだと確信した。

娘は夫の家系の顔だった。

すると母は手のひらを返し

「あんたに似れば良かったのに、あんたはもっとかわいかった」と言った。

こんな驚愕のセリフを平気な顔をしてサラッと言うのだ。

こんなものの為に私は苦しい子供時代を送ったのだ。

結婚後、夫と暮らす私の家も私の両親は支配しようとしていた。

両親は無自覚だが支配しようとしていた。

私達が飼っている犬のことも。

私達の家の収納のことも。

私達の娘の洋服のことも。

私が29歳になっても結婚しても

両親にとって私は”自分の楽しみの為に支配できる「モノ」”でしかないんだと思った。

私は娘をモノのように思ったことなんてただの一度もない。

力で押さえつけられる存在を力で押さえつけ

自分さえ楽しければいい、自分が楽できればいい

自分が苦しむのが嫌だから、その苦しみを別の誰かに渡し

その人が苦しめばいい。

だって、自分にはできないもの。耐えられないもの。

でもあなたならできる。

そういう理屈で苦しみを誰かに渡す。

母にとってその対象が私だったというだけの話だ。

私がこれを娘に渡さないのは

娘が苦しむくらいなら、自分が苦しんだ方がいいと思うからであり

でも自分も苦しまずに済むならそれが一番いいということで

いろいろと本を読んで勉強していた。

私は36年間の人生の大半を生い立ちが原因で苦しみ、自殺もしかけた。

でもこれは虐待だとは認められない。

だって私には目に見える傷がないから。アザがないから。火傷がないから。

私がどんなに嫌だったと主張しても

それ位の事はよくあるとか
もっと酷い目にあってる人がいるとか

とにかくそれは虐待と呼べるほど悪いことだと世間に定着していないのが理由で

却下になるのだ。

だから私は世間に定着していない考えも思いも発想も認めたい。

生い立ちの話から若干話が逸れたようにも感情的にも見えるかもしれないが

私が訴えたいのは両親に対する憎しみではなく、社会に対する不満でもない。

自分の経験を踏まえて思うこれからの”人間が育つ社会”がより良いものになって欲しいと願う”希望”だ。

学校も家庭も会社も、そこまで酷いことをされないと辛いという主張をしてはいけないのだろうか。

世間の誰もが認める有名な苦しみでないと認めてもらえない世の中。

なぜ今現在は世の中に定着していないけれど

そういう主張があってもいいよね、世の中が進歩する可能性を秘めた意見だよねと、言えないのだろうか。

すぐに自分に実現することなんてできなくていいから

子供の、いや、何歳でも、人のあらゆる発想、思い、感情を認めてあげよう。

実現できるか否かに重きを置くのではなくて。

みんな実現できるか否かに重きを置き過ぎだ。

自分に今すぐ実現することはできないけれど、いい発想だ。

これでいいじゃないか。

そんなものに重きを置いたら今現在無いものに対する発想は全てダメになってしまう。

だからいろんな発想を否定せず、潰さず、一言で片づけず

心から認めよう、大切にしよう

その人の発想=その人だから

その人の発想を大切にしよう

その人の発想を大切にするということが、その人を大切にするということだから。
ということを訴えたい。

親が子供を育てる時、長年かけて子供の本当の気持ちを地中深くに埋める作業をしてしまうと、一緒に暮らすのが20年くらいだとして

継続20年だ。20年もあればそれは深くに埋めることができる。

子供が大人になった時に自分の本当の気持ちを掘り起こせなくなる。

自分の本当の気持ちが分からなくなる。

自分の本当の気持ちが分からないまま幸せになれるはずがない。

深くに埋まった自分の気持ちを掘り起こすのはどれだけ大変でどれだけの年月を費やすか。

親たちはみんな子供を幸せにしたいと思っている。

だからこそ自分の子供が突拍子もないことを言ったら

現在の社会の常識を言って聞かせ子供の発想を否定するのだ。

それが子供のためだと思って。子供の幸せのためだと思って。

でも実はそれが子供の苦しみに不幸につながることに気付いてもらいたい。

そして、目に見えない傷にも目を向けてもらいたい。

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