『モダンかアナーキー』鑑賞後の雑感を置いておく
未来の自分のために置いておく。ネタバレとかシーンの話とかもりもり書いているので、そういうのが読みたくない人はこれ以降読まないほうがいいですし、自分のためにしか書いていないです。あと本当に読みにくいし、人のことなんて何も考えていないです。
きっと2020年に観てたら歩道橋の欄干の上に足を引っ掛けていたかもしれない。だから、今の私で観れてよかった。
1周目
この感想を取るまで実に1週間以上かかっている。
だから、ところどころ覚えている記憶の断片を繋ぎ合わせて書いておく。
気持ち悪い、噛み合わない感情で帰る。
シアター・イメージフォーラムを出た後の生ぬるいまとわりつくような夜の渋谷と歩道橋は、新垣の死んだ8/31のようだった。
帰り道、いつもより2駅手前で降りて、自販機で買った缶コーラ片手に、夜の街をしばらくさまよった。つき放したような映画だった。ついてこれないやつは振り払っていく。
ISO感度が高くてざらついた画面。見やすさを分かっていても、あえて採用していないことは感じ取れた。
音の大きさもまちまちで、声は拾えない。
コウを取り巻く女性と、バスケ部員コウは取り巻く関係とことごとく噛み合わない。
ゆかりにはキスをして、夜中送っているのに、付き合っているような甘さはみじんも感じない。視線は交差しないし、目線は合っていてもどこか焦点がぼけていて。身勝手で独りよがりな振る舞いばかりだ。
倉庫で襲いかけるシーンなんて、まさに衝動としか思えない。誰でもいいわけじゃないが、ゆかりである必然性は感じられない動きだ。
突然一緒に帰らないと言ったり、キスした理由をせがむゆかりを放置したり、好き勝手する。
何も言わずにキスをして、ゆかりはそれを恋や愛として受け取る。高校生の恋だ。気になっているバスケ部の男の子とキスをして、浮かれるな、なんて誰が彼女に言えるだろう。
コウは姉とも噛み合わない。母の何回忌目かを車に乗せていく、という姉に、頑なに拒否するコウ。
姉ちゃんは、大人だ。要領を得ず、補欠のくせにバスケ部の遠征についていくと言い、母の何回忌目かにはついていかないと駄々をこねるコウに呆れはするが突き放しはしない。
そのくせ、警察が学校に来たときの帰り道は姉に迎えに来てもらう。コウが焦点の合っているか定かでない状態で前に顔を向けている。暗い車内、窓の外の街灯と対抗車両のライトよりも、コウの左目があやしい光を放つ。車に揺られながら、警察が来た話をし、上の空で返事をし、長い時間が過ぎる。
まばたきは確かにしているはずなのに、どうしてこんなに強いんだ。そうして、コウはぽつりとつぶやく。「新垣死んだ」あの一言までの「間」はいまだにぞっとする。
新垣は新垣で怖い。
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上が2周目を観に行く前にかろうじて残していた私の下書き。
取りこぼしている。何かがはまっていない。そんな感覚に見舞われる。
もう一度観て堕ちるかもしれないが、もう一度観て確証を得たい方が勝った。でも、1人で堕ちるのだけはどうしても嫌で。
堕ちないだろうが、感受性が高くて知識量が多い、そんな人を誘った。いつもは緊張するし、2人でなんて絶対にムリなのに、好奇心とエゴが勝った。優しい友人はOKしてくれた。なぜOKしてくれたか、本人に直接聞いていないが、きっと好奇心が勝ったんだと思う。
私が声を掛けなかったら知ることもなかった、『モダンかアナーキー』という作品への。
別の会で観てきた人の感想を聞いて、やはり取り切れていないと判断した。
聞き取れなかった音も、拾えなかった関係性も、主人公がコウたる所以も。あの新垣という「装置」についても。
もう一度言葉の定義を見返す。モダンかアナーキー。オフィシャルサイトにはこう書いてある。「青春か × 冷酷か」現代的でも、無政府でもないその意訳の意味すら、分からなかった。
拾えなかったものをすくいあげにいく。寝不足で見てはいけないと、万全の睡眠をとった。仕事も今日はもう大丈夫。
邪魔するものは何もない。「精神状態を悪くする」というために観に行く。
私は編集者の柿内さんが好きだ。彼の編集者としてのスタンスが好きだ。
「感情を味わい尽くさないと」というのが、もうなくなってしまった日経テレ東大学の最初に語られていたコンテンツだ。
一蘭のカップラーメンが気になったら、買って食べるまで、その衝動を止めないエピソードを話していた。
1つ500円近くするカップ麺。具もないただの素ラーメンだ。それなのにコンビニで飛ぶように売れる。何軒も回ってようやく手に入れて、食べる。そんなにかな?ってがっかりする。
そこまで一連の感情の流れを味わっていないと、出ないものがあると。
私はそれに準じたし、私なりの体験への筋の通し方だ。
全部にできなくても、通したいものにくらい通したいじゃないか。
さて、ここまでが、本当に、2周目を観る前に書いたものだ。
2周目を観る直前
優しい友人と待ち合わせる。観る人を選ぶという話をしながら、共通の友人で誰なら観られるか(なお全員無事鑑賞できない側に分類された)、ライカの最新作はどうだみたいな話をする。
『死霊のはらわた』を観る約束しながら、私がホラー映画を観られるようになったきっかけを思い出す。毎晩リビングに数名で集まってテラスハウスをちょっと挟んでから1週間ばかりホラーを観続けたのが、もう4年も前のことだとはにわかに信じがたい。
ソファでブランケットを取り合って、1本の酎ハイを取り合って、作ったつまみが美味しくて。あの家は、石田の家にちょっと似ていたような気がする。
はっぱもクスリもやっていなかったけれど、誰も死んでいないけれど、もうその中の誰とも会うことはないんだろうな。
2周目
ここから先はまとまらないし、まとめる予定もない。ただ、吐き出しておかないと支障が出るから吐き出しておく。
どこまでも冷酷なコウ
姉ちゃんは言う。「あんた、お母さん似だよ。もちろん、あたしも」それを否定するように深夜、コウの家を抜けたゆかりは言う。「お姉さん、全然似てないね」
この作品では共感を示す人物が悉く苦しむ。誰かが何かを言えば、誰かが何かを反対するか、肯定も否定もせず、シカトする。
「姉ちゃんはバイトばっかしてる」「私もバイトしているよ?」「奴隷みたいじゃん」こんな冷たい会話、なんでコウはできるんだ。人の心があるのか??
1周目と同様に目だけがギラついてるのに、体温がまるでない。
ハナの振る舞い
ハナ「新垣君のこと知っているときがあるんだ。」
石田との関係をサカナに聞かれたときはぼそぼそと話していたのに(というか音声がよく聞き取れなかった)、新垣のときだけ、妙に通る声だった。
石田との2ショットは嫌がるし、顔も背けるのに、新垣と並んでいるときは新垣の目を見つめる。こんなに分かりやすい想いの違いがあるのか。
私は両思いじゃないって思って付き合ってないって断じたけど、その考えは改めて、仲間内のポジション確保のための彼女だったのかなって今は思ってる。
ぶっ殺す。
新垣をぼこぼこにしてやったという石田に、ハナがそう口を開く。
あれは新垣への恋慕じゃなくて、憐憫と、あとは空虚の共有だったんじゃないかな。
空っぽの新垣をなぐるのは、ハナ自身がなぐられてる感覚にも近いから。
私は、ハナは、新垣の孤独とか、優しさとかに気づいていたんじゃないかなって思った。ハナはどこか空虚で、みんなといる時も笑うシーンは少ない。新垣の空虚さに共感してたのが、ハナなんじゃないかって。
その空虚を共有しているけれど、関係性に名前をつけたくない。近づきたいけど、近づきたくない。
あのどっちつかずの距離は、私の青春と重なる。名前のない宙ぶらりんのままで、なんにもないプラトニックな関係だったのに、誰かに語ると陳腐化してしまう。
ハナはこれからも、新垣とのこと、誰にも話さず心に持ち続けるんだろう。いや、持ち続けてほしい。
新垣とコウの対比
新垣はリスクを恐れない。むしろ、リスクこそ取りに行こうとする。他の人から見たら、ハイリスクノーリターンにすら見える。自傷行為を繰り返して。
車のバンパーを壊す、車のサイドミラーを叩き落す。(おもちゃの)銃を向けてきたハナにキスをする。スケボーで殴ってきた石田に警棒を渡す。彼は破壊をしながら、自分を傷つけるものを欲してて。
彼が自ら暴力をふるうシーンってないんですよね。破壊衝動で、人を傷つけたことって、ない。器物破損しても、傷害罪を犯さないみたいな。ハナへのキスは、まあ、同意の上なんで。
一方コウは、リスクを恐れる。母親の葬式という得体の知れない恐怖から逃げる。新垣のお母さんの葬式からも逃げる。彼女の感情からも逃げ、父親の存在からも逃げている。バスケに向き合っている様子を見せながら、怪我をすることで逃避の道を作ってしまった。(バスケ中の怪我は穿っているかも知れないけれど、コウの逃避願望だったんじゃないかなって)
けれども、コウは逃げれば逃げるほど、行き詰まりを感じていたんじゃないだろうか。
どこに逃げても何かがある。逃げても何かが手詰まりで、コウはいつも何かに反抗している。
彼の逃げた先に立ち塞がったのが、新垣の死だったんだじゃないかな。人の死から逃避していた彼が、初めて直面した新垣の死。
もう逃げられないんだって確信した上での嘔吐だと仮定すると、青春だよね。もう、ここから這い上がるしかないんだから。
この2人が距離を取ったとしたら、それはコウ側からだろうなというのが私の確信だ。
だって、逃げるのはコウの特権だからだ。コウは母親の葬式から逃げて、一緒に逃げた共犯の新垣をつくり、記憶を改竄した。でも、その改竄はいつ自分にバレるかわからない。だから、改竄を突きつけてきそうな新垣から距離を置いた。
逆に新垣は、そんな風にコウに距離を置かれたことで共犯を失う。失って、逃げない自分が逃げた自責の念で自分を責める。
その自責がスケボーであり、自傷行為だったと思うと、コウってなんて罪作りなんだろうね。
新垣君、行く?
少年だった新垣の目は異様なぎらつきを見せた。ポリゴンの粗い据え置き型のポケモンをやりながら、彼らはどこに、行くと言い、あの時の新垣は何を感じたのか、何か話した気もするけどもう覚えてない。
あともう一つ、思い出したから書く。コウが腕を怪我して姉ちゃんに車で送ってもらう、異様なまでにギラついた左顔が記憶に残っていたが、
あの対比として、歩道橋の上の新垣の右顔を最後に持ってきた時の意識の向き方が綺麗だった。
新垣の死という過去を背負って、消化できずに立ち止まっているコウと、死ぬことがやっと叶う瞬間を迎え、死という未来に向かって歩み出した新垣。そして、ほとんど目にハイライトが入らなかったこの作品内で、新垣にハイライトが差し込む。
死がいかに新垣にとって救いだったのか、あんなに綺麗な村上虹郎の顔で語らないでよ、泣いちゃうじゃん。
変わりたくないを選んだフジ
フジは普通で、まともじゃない。普通であるがゆえに、悪ぶりながらも大麻は吸わず、やることと言えば友人を少しゆするだけ。
新垣に憧れてるし、2人だと普通に話せるけれど、みんなの前だとつっけんどんな態度を取っる。
新垣みたいにサイドミラーを壊そうとしても壊せない。
でも彼がいちばん、あの仲間という場所を欲していた。
新垣が死んだ日、自分が逃げたら新垣は死ぬってわかってて、逃げた。
止められたのに、止めなかった。
新垣とじゃんけんして、コーラを買って、いつも通りに振る舞うことで、
友だちなのに、見捨てることを選んだ。見捨てて、いつもの日常が戻ってくるっていう幻想を抱いてた。
だから次の日も同じ青のチェックのパーカーを着て学校に向かい、スケボーの撮影にも1人で顔を出し、何食わぬ顔でコーラを買おうとする。
ハナは新垣の死の周辺にフジが漂っていたことを知っていたんだと思う。だからこそ、何もせず、日常に戻ろうとするのが一番許せなかった。
新垣くんはもういないのに、あの居場所はもうないのに、なんであんたは今まで通り振る舞えるのよ!!!
そんな叫び声を2周目でやっと、噛み締められた。
サカナという清涼剤
この作品で終始画面をチラチラして、あらゆる話を土足で踏み入り進めるのが、私はサカナだと思ってる。
ハナを取り巻く恋愛もずかずか入って口にして、新垣みたいっすね!と言ってフジに殴られる。
そのくせ女子と遊んでても誰からも嫉妬されず、なんなら女子からの警戒感も薄い。マックシェイクをハナと飲んで2人で歩いても、誰もその関係を男女のアレだと疑わない。
彼の絶対に悪い側に染まらないスタンス、堕ちきらないポジションにいてくれることが、現実との架け橋のような気がする。
1周目、私は新垣のことを装置だと思っていたけれど、サカナこそストーリーを進めるうえで必要な装置だった気がする。
感想戦をした人はずっときらいって言ってたけど、彼がどこまでも薄かったから、私は息継ぎポイントを見つけて視聴を終えられたと思ってる。
優しい友人が、「サカナのあの髪型は、男女の中間でいられるメタファーみたいじゃない?」って言ってて、その理論が好きだったのでそれも置いておこう。
まとまらない締め分
これ、誰かに向けて書いているというよりかは、あの時の衝動と、感情が揺さぶられたことをきっと自分に残してあげたくて。ちゃんと自分の感情が動いた瞬間をログしておきたくて書いている。
この感情を背負って、明るいものを作れるほどに器用じゃないし、感情と脳のリソースをあけないと新しいものは生まれない。
この重くてしんどい感情と、どうしようにもない新垣への切なさを取り出したい時にまた帰って来れたらいいな。なんてね。
あえて推敲もしていないし、文章の強い癖もそのままに。ここまで読んでくれた人がいたら分かりにくくてごめんね、ありがとう。
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