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我が子のわがままと真反対

開放できる場は必要

我が子は学校などの集団の場では物静かだ。目立ったり、騒いだりを嫌う。右に倣うタイプ。

ボクの場合は真反対。集団の中で目立とうとは思わないけども、注目されてしまう。一時期は嫌だったけれども、そういう立ち位置なので最近では受け入れている。目立ってしまうことにポジティブになった。

幼い頃は、どうだったろうか。我が子とは異なり目立っていた。

小学生の頃は運動ができたし、中学生の頃は勉強ができた。高校時代は交通事故に遭ったり、組体操で落ちたりして、大所帯の学校で名が知られるようになってしまった。意図せずに。

小・中学生の頃、学校が発散の場であった一方、家ではオヤジがとにかく怖かった。ふざけたり、騒いだりはしたけれども、心の底からはっちゃけていたかと言うと怒られる、殴られることが頭の片隅にあったので、どこか遠慮していたように思う。

一方で、学校では先生に怒られることも、殴られることもあったけれども、家族ほど時間を共有することがないと思っていたのか、構わずに自分の感情を出していたように思う。

比べて、我が子は学校では大人しい。家では言動が強く、いわゆる内弁慶だ。思い通りにならないことには怒りを露わにするし、年相応とは思えない言い訳や口ごたえをしてくる。

ボクも聖人ではないので、我が子の言葉に反応してしまうことがある。怒りが収まらずに、ついついしばらく口をきかなかったり、同じ空間から離れてしまう。話し合えばいいのだけれども、どうしても頭に血が上っている状態では冷静には話せない。だから、その場を離れるけども、我が子にとっては寂しいらしく、すぐに和解を申し込んでくるが、簡単には受け入れられない。

ごめんよ、大人なのに…と思いつつも、自分の感情も大切にしたいので、怒りはなかったことにはできないので、なかなかスムーズに和解には至らない。一昔前の価値観であれば頭ごなしに怒ったり、絶対にあってはならないけども暴力で解決していたように思う。ボク自身が、そう対応されていた。

同じように対応することを、ボクが好ましくないと思っているのと、ボクと兄弟構成が異なるので、世間一般というものがあるのならば甘やかしていると思う。それが我がままにきっとつながっているのだけれども、家でも外同様に気持ちを封じ込めることになるってどうなのかなと。

サードプレイスという言葉があるように、人には家、職場や学校とは異なる場所が必要。実際にボクも本屋やカフェが気持ちの切り替え、癒しの空間になっている。我が子は習い事をしているけれども、それが我が子のサードプレイスになっているかは分からない。

と考えると、窮屈感を感じている学校ではなく、家で伸び伸びとして欲しい。が、我がままは控え目に、とも思う。このあたりのジレンマ、葛藤が、なかなか解消されない。

気分がいい時、気持ちに余裕がある時には、全くスルーできるけれども、そうではない時にどうすればいいのか。まだ解決策が見つかっていない。解決策が見つからなくても家族は続いていく。家族それぞれに考え方、解答がある。書くことで解答が欲しいわけではないけれども、少しは自分の現状を客観視できるのは小さくない。

吐き出す。書く。脈略がなくても、とにかく気持ちを言葉にするのは大切だなと、こうして書きながらいつも思う。書くことが苦痛ではないことが、ボクにとっては生きていく上で、かなりプラスに働いている。これからもとりとめもないことを書いていく。

おもいのままに。続けます。今日も呼吸ができた。ありがとう!


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