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忘備録、、、③

私が1号機の水素爆発を知ったのは、13日。
12日は移動と諸々でニュースを観る余裕などなく。
しかし、1号機は12日に爆発していた訳で、、、。

13日の午前中、ロビーから悲鳴の様な声が複数聞こえたので駆けつけると、そこには1台だけあったTVに1号機の爆発が映し出されていて、、、。

13日早朝、父は
「ちょっと様子を見て来る。」
と、車で大熊町方面に向かっていた。

血の気が引いた。
思考が停止してしまった。

1本の電話が繋がる。
姉だ。

「ようやく繋がった!今すぐこっちに来なさい!」
叫びにも聞こえた。
思考が停止している私。
「アンタが1番守るべきは子供たちでしょ!」
そう言われて我に返った。

そうだ、
子供たちを守らなければ!

覚悟を決めて母に言った。
「ごめん、姉ちゃんとこに行くわ。」
父とは連絡がつかない。
それでも行かなければ、このままでは身動きが取れなくなる可能性もあり得る。
「お父さんが戻るまで待って。」
母にそう言われて手を掴まれた。
その手を振り払い、
「車を横付けするから、子供たちをお願い。」
と車に走った。

あの時の振り払った手の感触と母の表情は、今でも鮮明に覚えている。

子供たちのため!

そう言い聞かせて車を横付けし、急いで子供たちを乗せて避難所を後にした。

購入したものは全て置いていった。
貴重品と子供たちの荷物だけを積んで、東京へ車を走らせた。

高速道路は封鎖。
下見を行くしかない。
下見も至る所に亀裂や陥没があった。
渋滞も至る所で発生していた。
渋滞の多くが
『スタンド渋滞』
だった。

そう、
前日に燃料を満タンにしていた私は、燃料の心配をする事なく、渋滞に巻き込まれる事なく車を走らせる事が出来たのだ。

職業柄、
『メモリが半分になったら給油する』
という癖がついていたので、前日避難所に行く前に燃料メーターを見て半分に差しかかっていたので入れたのが功を奏した。

日頃の癖って大事だなと思いながら国道4号を南下していると、道路沿いにクロネコの看板を発見。営業していた。

実は、金庫が開かなかった為に11日の売上金をそのまま持っていたのだ。
思い切って寄ってみる。
事情を説明して連絡を取ってもらう。
お金は預かってもらえる事に!
気掛かりが一つ減ってホッとした。

気合いを入れ直し出発。
福島県を脱出した。

途中、トイレ休憩を取りながらひたすら東京を目指す。
国道4号で東京に向かったのは、先にも後にもこの1回だけ。
栃木県を抜け、埼玉県に入る頃には日が暮れていた。

「ママ〜、お腹空いた〜。」
息子に言われてハッとなる。
ここまで、トイレ休憩はするもののずーっと車に乗ってひたすらウルトラマン全集のCDを聴いていただけ。
子供たちは飽きていたし、時間を見れば18時過ぎ。
お腹も空くはずだ。

通り沿いにあったファミレスに入った。

そこは、私たちが避難所にいたのが信じられないほど
『普通』
だった。

お子さまメニューを頼む。
私は食欲が出なかった。
周りがあまりにも普通にしているのが信じられなかった。
さっきまでの私たちが嘘の様に思うほど、そこは普通だった。

ふと思えば、栃木県の途中辺りから道路も異常が無くなっていた。
夕方の帰宅ラッシュで段々と混んではきたが、信号も何もかもが
『普通』
に動いていた事を思い返した。

子供たちが美味しそうにご飯を食べている。
当たり前の光景なのに泣きそうになった。

ここで気弱になってる場合ではない。

もう一度気合いを入れ直してファミレスを出る。

埼玉の草加インターから首都高に乗れた。
しかし、そんな場所から首都高に乗った事がない私は、どこに向かって進めばいいのか分からなかった。

PAで、地図を確認するも、『C1』とか『C3』とか書かれていてどこに向かうかわからない。
「八王子にはどうやって行けばいいですか?」
PAの店員や、何故か着いてしまう各料金所の職員に何度も聞く。

道路から観覧車が見えた時には、
「あ、間違ってる、、、。」
と呆然としたものだった。

首都高をどれだけ周っていたのか、、、。

ようやく圏央道に辿り着いた。
そこから最寄りの料金所で降りるも、今度はそこからの道筋がわからない。

姉の家に車で来た事はあったが、運転してきた事がなかった。
もちろん、ナビなんてものは付いていない。
地図を頼りに走り、コンビニに立ち寄り
「〇〇に行きたいのですが。」
と住所を告げて道を尋ねながらとにかく走った。

その内、見た事のある景色が見えてきた。
姉の住んでいるマンション群だ!
ようやく着いた!

駐車場に到着して姉に電話する。
すぐに来てくれた。
無言で抱き合った。
涙が出た。
安堵の涙と、両親を置いてきた後悔の涙だったと思う。

子供たちを車から下ろして部屋へ向かう。
姉一家は歓迎はしてくれたものの、家についてすぐ
「着ている服や靴は捨てるから」
と言われた。
代わりに、私には買っててくれた服を。
子供たちは姉の子供たちの服を。
着ていた服たちはゴミ袋に二重に入れられてベランダに置かれた。
複雑だった。

それでも、3日ぶりに3人で入ったお風呂と暖かく明るい部屋。
フカフカの布団に眠れる事は素直に嬉しかった。
何より、子供たちが楽しそうにしている姿が嬉しかった。

母に電話して到着の連絡をした。
両親も、明日母の実家に移ると言った。
犬たちも面倒を見てもらえるとの事だった。

「犬も連れて行こう。」
そう言ったのは私なのに、全てを放棄してここに来た事に罪悪感があったが、
「大丈夫、仕方がないのよ。アンタはそれでよかったの。」
と母に言われてまた泣いた。

泣いていると、息子が心配そうに見るので必死に引っ込めた。
笑顔で。
子供たちには笑顔でいよう。
幼子2人に心配をかけてはいけない。

何より、姉とはいえ、家族がいる家に世話になるのに泣いてなどいられない。
早く状況を整えなくては。

そう思いながらも、一気に疲れがきたのか睡魔が襲う。
親子3人で川の字になって寝た。
(野上の家はどうなっているだろうか)
考えなくてはならない事は沢山あったが、睡魔に負けて眠ってしまった。

11日からほとんど寝ていなかったのもあり、3日ぶりに安心して眠れた。

翌日に続く、、、。

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