弱くあることの力とフェミニズム
「フェミニズム」を「権利ばかり主張するうるさいやつ」と認識する人が多いことを、最近、体験する場面がありました。びっくりしました。
このように認識している人が、人権問題に取り組んでいるという事実も、さらにびっくりしたことでした。何でこんなことをこの方はおっしゃるのかを精神分析的に言うと、要は自己防衛だったのです。
どういう自己防衛であったのかは、長くなるからここではかいつまんで述べておきましょう。自分が当事者であるという現実を見ないようにするために、私たちはしばしば強がります。この強がりは、次のような暴力に対する抵抗として起こります。
支援者が当事者を「あなたたいへんね(当事者で)」と勝手に「理解」してしまうという暴力です。
暴力という言葉は言い過ぎだと思われるでしょうか。しかし、私はこれを暴力と呼びたいのです。共感(コンパッション)しているのではなく、軽蔑している、差別化している、カテゴリー化する思いが背景にあるときに起こる暴力なのです。
勝手にカテゴリー化し「理解」するのは、専門家によるパターナリズムであって、家父長制によって「女はかくあるべし」と「理解」されてきた史実とも重なります。
上述した方は、こうした暴力を受けてきたのでした。
ところで、「セクハラ」と言えば、男性から女性へのセクハラがほとんどであるが、最近では女性から男性へのセクハラも実は多いのです。
女性たちが申し立て活動をしてきた歴史に比べ、男性は相談窓口すら少ない。私の相談室でも「男性相談はやっていないのですか」という問い合わせをよくいただきます(男性OKなのですが、心理療法の観点から初回はパートナーの方にご同伴いただき、面接の受け方等をご説明させていただきます)。
男もつらいよ、ということで男性学という分野もがんばっています。
話を戻しましょう。フェミニズムが問うてきたことを一言でいえば、家父長制です。すなわち、社会構造なのです。
家父長的な社会構造の中で、女性たちはほとんどが被害を被ってきた長い歴史ゆえに、女性たちは連帯しました。そこには、女性であることだけで共有できた体験に基づくつながりがあったのです。
今日はどうでしょうか。新自由主義が闊歩した後、「未婚/既婚」「子あり/子なし」「正規/非正規」「モテ/非モテ」など、女性たちの連帯を分断するカテゴリーがますます増えてきています。
女性たちの間に溝ができればできるほど、本来は変革されるべき家父長制はしめしめと思うばかりです。市場における勝ち組のみ(勝ち組とはすなわちシステムに隷属すること)が生き延びるようにデザインされた社会構造はビクともしません。
フェミニズムが社会構造を問うとき、「男性」は象徴的な存在として取り上げられてきました。多くのフェミニズム支持者にとって、敵は「男性」だったのです。
私はフェミニストの上野千鶴子と合気道家・現象学者の内田樹が言っていることはどうも似ているなぁとずっと思ってきました。でも、内田樹さんは長らくフェミニズムに文句を言ってきていた方です。いや、でも上野千鶴子はそうはいっていないのではないか、と私はひとり頭の中で喧嘩の仲裁をしていたのです(笑)。
最近、上野千鶴子さんが内田樹の考察を引用し、コロナ禍における政治に対して内田樹も上野千鶴子と共同して意見されました。さすがのおふたり、と思い嬉しくなりました。
それで、何が言いたかったかというと、久しぶりにフェミニズムの文献を最近読んでいて、フェミニズムは「弱くあることの力」を価値づけようとしているのではないかと思えてきたということです。
弱くあること、失敗すること、できないということは、人間の存在価値を損ねるどころか、発達や成長をもたらすということは私が学んだ精神分析では当たり前のことでもあります。
人間性の発達や成長、そして、自己の統合はE.エリクソンによれば中年期以降に課題となるテーマなのですが、おそらく『大人のいない国』(内田樹・鷲田清一)である日本社会では、それが一体どんなものなのかを教えてくれる大人たちがいなかったために、そこで見える景色が価値づけられていないからでしょう。
私自身は、七転八倒しながら、日々その階段を一段ずつ上がっているのですが、それはほんとうに生きるって楽しいと思える世界へのまなざしを手に入れられるように思うのです。
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