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理性を行使する主体像への疑問――共存可能性を考える

昔、繰り返し読んだ本を読み返してみると、何を言っているのかさっぱりわからない箇所と、いまなお響いてくる箇所とがあって、面白いものです。

私自身が変わったこともあるのでしょうが、昔は、何を言っているのかさっぱりわかない箇所も、どうにかわかろうとして、わかった気になっていたような気がします。

さっぱりわからない箇所をいま読むと、そこは結局、モノローグでしかないことに気づきました。読者とのダイアローグに開かれていく書き方になっていない方が、書き手にとって都合がよいこともあるのかもしれません。自戒も込めていますが。

いまなお響いてくる箇所は、実証主義が主流となった社会学では、ほぼ生存することができないものではありますが、今日の物理学や乳児研究などの文脈で見かける論点でもあることに気づきます。

ところで、今日は、社会福祉領域でも量的データを使った論文をよく目にするのですが、この傾向は良いのか悪いのかわかりません。人口統計など規模の大きい量的データは必要ですが、個人的には、深みのある理論や、データなら分厚い質的記述を好みますし、アナール学派のような感性は大切にしたいところです。

話を戻すと、A.シュッツという現象学的社会学者は、E.フッサールの超越論を拒み、それよりも日常生活世界に住まう人びとの内世界的な主観性を重視しました。それは、現象学を具体的な生活の中で活用するための方途を探る試みであって、意味生成や社会構成の文脈に位置づけようとするものでした。

シュッツ自身がナチスから逃れてアメリカに亡命し、昼は銀行員として夜は現象学者として生きたという生活史とも、おそらく関係するのでしょう。

現象学的社会学の流れは、主観主義として切り詰められてしまうのですが、そのように切り詰められてしまった背景には、主流派の近代的主体像への囚われがあったように、いまとなっては思います。

主体という言葉は、あらゆる場面で簡単に使われますが、いまなお「理性を行使する主体」「主体があって客体を認識する」というものが想定されているように思います。

そのような主体は、どのようにして可能なのか。大きな物語に従属しているからこその主体なのではないか。だとしたら、それは中身のないはりぼての主体なのではないか。

現象学がもたらしたインパクトで重要なのは、主体以前に「関係が所与としてある」ことを主張したことでしょう。

関係がまずあって、そこから主体が生成するという考えです。

そうして、間主観性のさらに基底にある間身体性や間生体性の領域に議論は進むのですが、それらの具体領域のひとつに、乳幼児と養育者の関係があるのかもしれません。

そもそもフッサールの現象学の始まりが第一次世界大戦への反省からであることを鑑みると、やっぱり現象学には、人間の共存をめぐる問いが通底しているように思うのです。

ここまで書いてみると、結局、自分の関心はあまり変わらないんだなぁと思いながらも、なかなかどうして、わかりやすく書けなかったので、また書きたいと思います。

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