誰かのケーキ

 日が暮れると部屋の窓は鏡になって、ランプや机に洋服箪笥、この部屋にあるものをひとつ残らず映しだす。
 そうして窓のむこうにもうひとつ、こことそっくりな部屋ができあがる。
 けれどもそこに私はいない。
 私はあくまでも外側から眺めているだけ、住んでいるのは別の子なのだ。
 そのことに目を凝らしているうちに気が付く。
 だんだん向こうの様子がくっきりしてきて、この部屋と違うところが見えてくるから。
(たとえば足下で丸まった毛布の模様、窓辺にあるサボテンの植木鉢や飲みかけのお茶は、私の知らないものだ。)
 それは当然なことだ。
 あちらは彼女の部屋なのだから。

 暗がりに台所がある。
 とても小さな台所だ。トースターとコンロがひとつずつあるだけ、それから隅っこで銀色のボウルがひんやり光っている。
 誰もいない部屋は眠りこんでいるみたいに静かで、でもそれももうおしまい。
 ほら、廊下からぱたぱた靴の音がして、ドアが開き、彼女が帰ってきた。

 天井にぱっと明かりがついて、彼女は抱えた紙袋の荷物をテーブルのうえへ、分厚いコートとマフラーを脱いで椅子の背にかける。外はずいぶん冷えるのだろう、鼻とほっぺたが赤くなっている。
 水道の蛇口をひねって手を洗い、暖房の電源を入れる。そうやって彼女が移動するたび床がきしんで音をたてて、さっきまでしんと静まり返っていた部屋はとたんに息を吹き返したように生き生きする。
 今度は電話のベルが鳴って、彼女は誰かとお喋り。
「大丈夫、朝には間に合うから」
 冷蔵庫の扉を開けて中を覗き込みながら、ところどころで相づちを打っている。
「あなたはなるべくたくさん眠って、明日は大変な一日だよ」
 それが最後の挨拶だったみたいで、そのあと電話はぷつんと切れた。

 次に彼女はキッチンに立っていた。エプロンを身につけて、手元はボウルや量りを行ったり来たり、なんだか忙しい。
 卵を割って牛乳をそそぎ、小麦粉をふるって泡立て器でかき混ぜる。こぼさないように、ここは慎重に。そんな心の声が聞こえてきそうだった。
 洋服の袖は上まで捲っていて、けれどもちっとも寒そうじゃない。すごく集中しているのだ。彼女はこれからお菓子を作る。
 フライパンをコンロにのせて火をかける。ボウルの中身をお玉で掬って、フライパンの上にまあるく伸ばす。しばらく待って生地にポツポツ気泡が出てきたら、ぺたんと裏返し。焼き上がったものはお皿に移して、そしてまた次の一枚に取りかかる。そうやって彼女はもくもくとホットケーキを焼いていった。何度も何度も、同じことのくりかえし。
 なんといっても狭いキッチンだ。作業はじれったいほど少しずつしか進まない。それでも時間が経つごとに、お皿の上に湯気をたてた生地が積み重なり、じわじわ天井に近づいてゆく。
 焼いたら終わりではなかった。生地と生地の間にクリームを塗ってはさみたい、それから冷蔵庫の中にある木苺のジャムも。
 ボウルを抱えて生クリームを泡立てているあいだ、くたびれた彼女は半分夢うつつで、でも頭の中はケーキのことでいっぱいだった。それは今だけのことじゃなかった。ここ最近は外でもずっと材料や段取りをイメージしていて、今夜のケーキに備えていたのだから。


(そうして真夜中、テーブルの真ん中にうず高く積まれたケーキ。)
 それは天井に届きそうなほど堂々たるもので、彼女は疲れきった手足を放り出して床に仰向けになり、ぼうっと見上げていた。周りには砕けた卵の殻や、いつのまにか飛び散ったらしい粉や牛乳の白いあとが点々とあった。自分の顔や髪の毛にだって付いているような気がする。でもそんなのはどうでも良かった。
 なんて満ち足りた気分、ついにケーキが完成したんだ。
 いつしか外はぼんやり白くなっていて、でも日が昇るにはまだ早いはずだった。
 窓を開けてみると雪が降っていて、それはまるで音が吸い込まれてしまったかのようで、自分以外に起きている人はこの世にいないんじゃないかというくらい静かな眺めだった。
 それで最後の仕上げを思いついた。ケーキに雪を降らせよう。
 彼女は椅子にのぼって手を高く持っていき、天井の辺りから粉砂糖をさらさらさらさらふりかけた。
 ケーキが白く染まってゆく。

 そして何度かまばたきすると、彼女はケーキの側面に手をかけて、一生懸命よじ登っているところだった。自分の身体の半分くらいある大きさの苺を背負っているせいで、すごく重たい。天上からはずっと雪が降っている。息も絶え絶え、ようやく頂上にたどり着くと、そこはいちめん雪の原だった。ふかふかの地面に足を下ろして真ん中のあたりまで進むと、そこで背中にくくりつけていた大きな苺をそおっと下ろす。それにしても、なんて赤くてきれいな苺だろう。彼女は苺のつやつやした表面を撫でて 、うっとりした。それは特別な苺で、広場の記念碑的な役割だった。無事に大事なつとめを果たした彼女は心底ほっとし、苺にもたれて目を瞑った。


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