見出し画像

評価の対象

初めて、娘(3歳2ヶ月)を評価された、とおもった。
娘の行っているプール教室。

泣かずに行けたら素晴らしい期を過ぎたころ。本格的にばた足や顔つけなど、コーチから教わりながら、ミニ浮き輪を両肩にくっつけながら泳ぐ今。

その様子はコロナの影響で窓から見ることもできず、コーチから様子を聞くしかなかった。
先にいっておくが、コーチはとってもいい人で、いつも温かく娘を受け入れてくれている。

聞けば、我が娘。ちょくちょく勝手に休憩を入れたりするらしい。なんとも娘らしいと言えば娘らしい。目に浮かぶ。

その時にコーチがちらりとさりげなく、「(話が)うまく理解できてないということではないですよね?」と確認してきた。私が「そんなことないと思いますけど」というと、「そうですよねぇ」と。コーチの言葉を最後まで聞かずに、先走ったりするそうだ。

ものすごくさりげないやりとりだったから、その場はさらっと流れていった。が、帰ってからなんだかモヤモヤ。
今までの娘をみてると、親の欲目かもしれないが、話が理解できないどころかきっと良く分かった上で、自分のやりたいことを優先したのだろうな……。結果、ほかの子と違う行動になっているのだろうな。


モヤモヤするのはなぜだろうと考えたら、今まで、彼女が誉められる以外の評価を外部から受けることがなかったことに思い当たった。

そうか、3歳、そういう時代に入ってきたか。
というのが私の感想だった。

なにも娘が優秀だったからではなく、そういう場所にいなかった、ということなのだ。
集団に入っていない娘は、誰かと横並びで比べられることがなかった。
のんびりマイペースで、回りの子と歩調を合わせる必要もなく、家庭のなかで過ごしてきた。
近所の親子たちとみんなで遊ぶということはあっても、みんな違ってみんないい、というのが前提だった。

水が好きだからという理由でプールに通い始めたが、プールとお水遊びの違いは、『コーチが教える』ところにある。『教える』場では、『教わる姿勢』が求められるのだ。それは、出来不出来という形であらわれる。

プールに限らずこれから幼稚園、学校、習い事、などなどなどずっとついてまわるんだろうな。
自己判断を大事にする娘は、良くも悪くもこれからどんな『評価』をされながら生きていくのか。

少し心配、少し憂いながら、こどもの時代が本格的に始まった、とおもった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?