「大伯父が生きていたら、私はこの世に存在しない」と著者は、この「私」という存在を自明視していないのです。「大伯父」と「私」は共にあることができない(私が存在するのは大伯父が戦死したから)、という関係にあるので、共感より断絶をそこに見てしまう、ということになってしまいます。
このような視線で現在から、過去の断片である歴史を拾い上げ、それを積みあげ、記述しようとする姿勢には惹かれるものがあります。歴史は、そして過去は、断片のもの、としてしかありえないのだから。そして、このような歴史学の営みを裁判と比較して述べます。
歴史も裁判も過去の痕跡をあつかうのですが、裁判ではなんらかの審判を下し、判決を導き、閉じることを目的とします。これが「物語に回収されない断片」を拾い集めて紡ぐ、歴史との違いです。
その原点には「そうであったかもしれないのに、こうであった」という戸惑いが、あるのではないでしょうか。そして、それを言葉にすれば、その言葉は偶然に出会った読者の目に触れる、そのとき、それらの言葉は著者の手からこぼれ落ち、断片として、屑として〈偶発的なつながりを待ち受け〉ているものとなる、と述べています。
藤原辰史『歴史の屑拾い』講談社 2022