歴史の屑拾い

 私の父方の祖父には、兄がいた。(略)彼は、南洋で戦死し、「英霊」とされて靖国神社に祀られている。実は、もともと、この兄は私の祖母と結婚することになっていた。ところが兄が戦死したので、弟である私の祖母と結婚することになったのである。(略)
大伯父が生きていたら、私はこの世に存在していないので、共感よりも断絶が目の前に立ちはだかる。

174-5頁

「大伯父が生きていたら、私はこの世に存在しない」と著者は、この「私」という存在を自明視していないのです。「大伯父」と「私」は共にあることができない(私が存在するのは大伯父が戦死したから)、という関係にあるので、共感より断絶をそこに見てしまう、ということになってしまいます。

このような視線で現在から、過去の断片である歴史を拾い上げ、それを積みあげ、記述しようとする姿勢には惹かれるものがあります。歴史は、そして過去は、断片のもの、としてしかありえないのだから。そして、このような歴史学の営みを裁判と比較して述べます。

 もちろん、法廷では歴史を歪曲する人間は負けなければならない。そうでなければ、ナチスに人生を奪われた人びと、あるいは傷つけられた人びとはさらに深く傷つく。ただ、歴史学の営みは裁判とは異なり、次世代、また次世代と受け継がれ、閉じない。だからこそ歴史学には歪曲された歴史を退けるだけでなく、ガス室否定論を圧倒するような魅力的な歴史像を示す、というもうひとつの課題がある。(略)魅力的な歴史像とは、(略)事実そのものがはらむ一回限りの迫力と、それが既存の物語に回収されない断片性に耐えるにに必要な「苦い薬」ではないのか。

151-2頁

歴史も裁判も過去の痕跡をあつかうのですが、裁判ではなんらかの審判を下し、判決を導き、閉じることを目的とします。これが「物語に回収されない断片」を拾い集めて紡ぐ、歴史との違いです。

 そして、それらの言葉の群れは、やがて偶然に出会った読者によって批判され、解体され、次の書物や思考の肥やしになる。少なくともそうなるように工夫されなければならない。謝辞や註や参考文献が必要なのは、それらが偶然の出会いの記録でもあり、歴史書の解体に役立つからである。やがて歴史研究者自身も、老いて寿命を迎えることで、自分の放った言葉とともに、歴史にただよう「屑」の一つになる。

187頁

その原点には「そうであったかもしれないのに、こうであった」という戸惑いが、あるのではないでしょうか。そして、それを言葉にすれば、その言葉は偶然に出会った読者の目に触れる、そのとき、それらの言葉は著者の手からこぼれ落ち、断片として、屑として〈偶発的なつながりを待ち受け〉ているものとなる、と述べています。

藤原辰史『歴史の屑拾い』講談社 2022

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