アダム・スミスの夕食をつくったのは誰か?

 1776年、経済学の父と呼ばれるアダム・スミスは、現代の経済学を決定づける一文を書いた。
 「我々が食事を手に入れられるのは、肉屋や酒屋やパン屋の善意のおかげではなく、彼らが自分の利益を考えるからである」  

16-17頁

この言葉は、分業について述べられているところでの一節で、まさか生活に必要なものを自分の生産物で賄うことは不可能なので、「交換」という志向性を持つ、といいます。しかもそれは、善意によるものではなく、利益にもとづく利己心によるものだ、としています。

 肉屋やパン屋や酒屋が仕事をするためには、その妻や姉妹が来る日も来る日も子供の面倒を見たり、家を掃除したり、食事をつくったり、服を洗濯したり、涙を拭いたり、隣人と口論したりしなければならなかった。 

27頁

アダム・スミスが経済活動として注視したのは、交換という取引のみであって、『アダム・スミスの食事をつくったのは誰か』という点は無視されています。世話をする、つまりケア活動は、経済活動に含まれるものではなかったのです。経済学の父であるアダム・スミスが利益をそのように定義した、と言ってもいいかもしれません。ケア活動は、善意や愛情にもとづくもので、〈国の経済活動の総量を測るGDP(国内総生産)〉には〈カウント〉されなく、無償の家事労働とされます。

そのような家事労働がなければ、生活が成り立たないので、いわゆる経済活動を継続することは不可能になります。もし、アダム・スミスが、自分の利益を考える肉屋などだけでなく、愛情による家事労働にも、経済的要素を認めていたなら、今ある雇用主などは、雇用している社員だけでなく、家事を担っている人にも賃金を支払うことになったのかもしれません。

そこでは、経済と愛情が結び付けられているはずですが、〈経済人が理性と自由を謳歌《おうか》できるのは、誰かがその反対を引き受けてくれるおかげだ。利己心だけで世界が回るように見えるのは、別の世界に支えられているから〉(59頁)という具合に切り離してとらえられています。

その経済人というのは、経済的合理性に基づいて、自己の利益の最大化を図るための適切な判断をするという者、という身体性のない理念のようなもののことを指します。

 たとえば5歳の子どもに対して、ある金額のお金を二人で分けようと持ちかけたとする。そのとき子どもは、金額の分け方が公平かどうかは気にしない。相手の取り分のほうが多くても、もらえるものはもらっておこうとする。取引を断って何も得られないよりは、少なくても手に入れたほうがいいからだ。実に合理的だ。まるで経済人だ。でも世界の経済を動かしているのは、5歳児ではない。 

134-135頁

公平というのは、思いやりや気配りによって支えられるのではなくて、正義によって成立します。公平な取引とは正義に基づいているものなので、自己の利益の最大化のみを追求する経済人には当てはまりません。そして、思いやりや気配りは、取引とは異なった次元にあらわれる価値観です。経済活動からはずされた「女性的」とされる価値観です。そして本書は、このように結ばれます。

経済格差から人口問題、環境問題、高齢化社会における介護労働の不足まで、あらゆる問題にフェミニズムが深くかかわっている。それは単なる「女性の権利」の問題ではない。これまでのフェミニズムはまだ本来の半分までしか進んでいない。女性を加えてかき混ぜたら、次にやるべきは変化のインパクトを正しく理解し、社会と経済と政治をあらたな世界に合わせて変えていくことだ。経済人に別れを告げて、もっと多様な人間のあり方を受け入れられる社会と経済をつくっていくことだ。 

260頁

経済の世界では「男性的」とされる価値観が支配的です。だから、数量化でき利益として計上しやすいものが重視されがちです(ケア労働には不利な条件)。今の現状の多くでは女性の社会進出は、男性的価値観に認められることを目指している、といってもいいでしょう。しかし、そのような状況のもとでの女性の社会進出が増加すれば、「女性を加えてかき混ぜ」ることにより、変化が起こる、と言います。

これが、ブルシット・ジョブからケア労働、エッセンシャル・ワークへと経済の重心が移行するために必要なことと思われます。

『アダム・スミスの夕食をつくったのは誰か? これからの経済と女性の話』
 カトリーン・マルサル 高橋璃子 河出書房新社 2021

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