「新テレビ学講義」を読んで 〜第一章〜 視聴率の強迫観念

新テレビ学講義を読んだまとめと感想。
第1章 「テレビ研究は何ができて、何ができていないか」の序盤。

これまでの海外と日本のテレビ研究において、どういう分析がなされてきて、どの部分が足りないために業界に改革を起こすような芯を食った実用的な論文が存在しないのか、を様々な引用をもとに記している。

中でも私がより気になった過去の研究の例を挙げたい。

P63より引用
『企業ニーズの複雑な流れにおいて、視聴率は科学的で機械的な機能以上の効果を発揮する。例えば、トッド・ギトリンは1983年著作において、ネットワークが視聴率を“即時に数字的な満足を伴う物神的崇拝”として強迫観念を持つ状況を指摘していた』

上記はニューレフトの活動家であったトッド・ギトリンという人が1981年にアメリカのテレビ番組の制作現場を7ヶ月に渡るインタビュー取材を通して記した内容である。
日本で言う「昔のテレビはおもしろかった」と言われるような1980年代にすでに海外では視聴率の物神的崇拝を危惧している。
1980年代の日本のテレビは、風雲!たけし城が始まった頃で、テレビバラエティ黄金時代の原型が作られ始めた頃であろう。

その後テレビバラエティが発展していったのは、おそらく「視聴率」があるからだろう。
それは必要なプレッシャーであり、重要なファクターであったと思う。
しかしその反面、強迫観念でもあるという指摘である。

一旦現在に立ち返って考えて見ると、「数字的な満足を伴う物神的崇拝」という言葉は今でも恐らく同一の感覚をテレビマン全員が持っていると思う。
視聴率(最近では再生回数も含む)がとれると嬉しいし、取れなければショックである。
これは強迫観念なのであると。

さらに今、制作・非制作に関わらず番組内容の面白さではなく、全員が視聴率の結果を見て講評をしてくるので視聴率が悪ければ軒並み、この点が悪かったとか、もっとこうした方がよかったとかを後出しで言ってくる。
「視聴率悪かったけど面白かったからOK」とは誰も言わないのである。
それは、無意識のうちに数字的な満足を伴う物神的崇拝として強迫観念を持っているからだろう。

見えない視聴者の直接的な顔が見えない「視聴率」というものは、実態がない分、想像で物事を考えてしまいやすく、崇めてしまいがちになる。その点を「物神的崇拝」と呼んだのは80年代当時にしてかなり的を射た表現だと思う。

また、当時は娯楽のパターンが少なく、面白いものを作っていれば満足できるだけの視聴率を取れていたと考えられる。
現代においては、どれだけテレビの前にいる人のパイを他局から奪っても、数字的満足を得ることはかなり難しいし、それを続けることもより難しいので、物神的崇拝の呪縛から抜けることがより困難になっているのではないかと考える。

視聴率とは「番組がどれだけの人が見たか」を示すだけのものだったにも関わらず、いつしか「番組がどれだけ面白いか」「番組の質がどれだけ高いか」「どれだけの人が興味を持って見ているか」を示すものになってしまっているのだろう。
事実として、面白くて質が高くてみんなが興味を持っているものは視聴率が高く出るという経験から、大きく間違っていることではないのだが、本質を間違っているということである。

このズレは誰が広めたわけでもないが、会議の中や日常会話、ひいてはネットニュースの影響もあり、ズレていっていると思うし、放っておいて直るものではないと思う。

逆説的に私が心に留めておくべき考えとしては、視聴率は形がないため崇拝してしまいがちだが、実態は機械的なもので、強迫観念に駆られるものではない、と思っておきたい。
かといって数字的な満足は得たいし、褒められたい。ここが厄介なのである。

結果として、番組の視聴率に応じてどれだけの金額の広告料を払うかを決めるのも人であり、どれだけの視聴率を取れば良しとするかも人である。
結局そのあたりにいる人たちの意識として、視聴率に強迫観念を持たず崇拝せず、面白さや質を判断する構成する要素の一つとして、視聴率が使われることに留まる程度に引き落とす必要があると私は思う。

上記の研究例は「たしかに」「あるある」「この当時から思ってる人いたんや」という感じなので、そこが面白い。

第一章はまだ続く。

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