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共感はどこにあるのか #モヤヌー
突然ですが、共感とは。
他人の意見や感情などにそのとおりだと感じること。また、その気持ち。
共感が全くわからない…と言う人は稀だと思います。
多かれ少なかれ、個人の選択は共感を伴うものでしょうから…。
って、あれ?
選択に共感が伴う…とは。
つまり、個人的な判断は既に共感が含まれている…と言う事ですか?
いやいや、選択に共感は含まれない…と言う人がいたら教えて下さい。
多くのものから選ぶ事が選択なら、既にそれは共感の上にある事柄ですよね。
それに、全く共感が無い選択とは、選択と言わず、新たな方法へ進むとか、やり方を変える…とかです。
あえて言うなら、選ばないを選ぶでしょうか。
それで、少し逸れましたが、冒頭の共感の話に戻ります。
芸術、音楽…いわゆるアーティスト系のやつですな。
これは、作品と呼ばれるものに作り手の反対、いわゆる鑑賞側がそれを見て、聞いて、触れて、「良い」と感じた時に共感が生まれている…と思ってました。
つまり、作品から共感が生まれる…と言いますか。
なのですが、実はそれは逆なのでは?と思いつきました。
つまり、既に共感と言う得体の知れないものが存在して、そこから作品が生まれてくる…と言いますか。
と言うのも、いわゆるインスピレーションとか、直感とか、ピンと来るものは、どこから来ますかね。
何が言いたいかと言うと、色彩を見た事がわからない、音を聞いたことが無い、何かに触れた事もない…と言う人は何かを表現する事が出来るのでしょうか…と言う話。
何となく、感覚的に難しい感じがします。
もし出来るとすれば、その人の動き…と言う部分でしょうか。
それでもその動きとは、人間である以上、人間の可動域での動きでしょう。
そうなると、人間の身体が既に同じ作りになっている以上、共感されうる身体が既にあると言う話にもなりそうです。
なんと言うか、かんと言うか。
共感ってどこにあるんでしょうね。
こうして考えると、目の前にある作品以前に既にあるような気もしますし、人間と言う身体を得た時点で、既に備わっていると言いますか…。
既に、共感と言うなんとも言えない何かが世の中のいわゆる空間上にモヤっと広がっていて、それを受信するのが身体で、受信した共感を表現するのも身体と言うか…。
もしかして、このモヤッとしたものが、持続ですかね?…知らんけど。
とは言え、何となくこんなオチの付け所が具一番しっくり来る感じがします。
…でも、もしこれが合っているのなら、人間の自由意思とは、本当はどこにも存在していない感じもしますね。
選択しないも、選択に含まれていると言うか。
なんて、昨日からまた変な事をモヤモヤと考えていました。
と言う事で今回もオチは無しですね、すみません。
今日もお付き合い下さり、ありがとうございました。
追記
モヤモヤしながらヌーソロジーを絡めて考える…?
暫く「#モヤヌー」で続けようかしら?
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