自我とか他我とか
他我化する…そんな言葉をヌーソロジーの中で耳にしました。
他我化とは、自分を見失う…そんなイメージでしょうか。
そう言えば、自分を見失う、他者に自分を投影する方向には違いがあるような気がします。
自己を他者に投影するとか、自己に他者を投影する…。
私の勝手なイメージですが、他我化とは、自分の上に誰かの像を上書きする感じがします。
前後感覚で言うと、他者が見られている、いわゆる後ろの空間を、自分の前としている感じです。
まるで想像の世界が重なった鏡の中の世界のようです。
それとは違って、自己を他者に投影する方向は、位置が変わるようなイメージです。
前後感覚で言えば、他者の前を自分の前として見る感じ。
つまり、自分と他者の位置を置き換える…でしょうか。
言葉にするとそんな感覚です。
さて、置き換えた時に見える世界も想像の世界ではあるのですが、それよりも、もっと先の何かへと発展していきそうな世界のように思います。
つまり、置き換えた先で感じた事を、自分の位置に戻してどのように表して行くのか?と言う発展があると言いますか。
これを端的に言うと、相手の立場に立ってモノ見る、考えると言う事でしょうか。
言葉として表現するなら、想像から創造へ…。
自己表現が、今の状態よりも先にあるような…。
そんな感じがします。
さて、自己表現。
つまり人間活動とは何でしょうか。
太陽の代わりに地上で創造活動をしているのが人間活動…とか、そんな話でしたっけ。
そうなると位置を置き換えが起きた後の太陽は、もっと壮大な意識のような感じがします。
太陽の代理としての人間活動をタロットで見るなら、恐らく悪魔のカードですね。
けれどタロットは太陽とか壮大なものより、もっと部分というか、もっと個人的なモノへと縮小した雰囲気です。
そう言えばヌーソロジーでも太陽の話がありましたね。
ヌーソロジー話と言うか、オコツトさんの話は難しいですね。
要するに、人間全体の精神の元のような意識とか、そんな感じでしょうか。
改めて人間活動とは何なのでしょう。
そう言えば、ビジネスでも必要とされるサービスやモノに対価が支払わられる…そんな事を言いますね。
けれどその本質は、自分を他者の位置に重ねて、そこかで見た世界から感じたものを、再び自分の位置に戻して、そこから考えて、表して行く事…なのではないかな?とも思います。
とは言え、私はあまり深く考えずに、生きていますがね。
それに自我は蔑ろにしていると、あっという間に囚われて失ってしまうモノだとも思っています。
要するに、他我化と言う言葉を聞いて、人間は乗っ取られやすい生き物なんだと感じました。
だから自分探しとか、自分軸を大切に…なんて言うのだと思います。
自我が無いと自己すら見えてこないのが人間なのに、すぐに自我が乗っ取られる。
そんな哀れな雰囲気がします。
そう言えば、先日から何となく感覚とか空気感が変わった気がします。
ネット上の空間が違うと言うか。
言葉や画像に自分を重ねるのは、すでに飽きてきたのかな?と言う感じです。
そろそろ、誰かの誰かに自分見るのはやめましょうか
「普通」や「皆んな」と言う並列から抜け出しませんか
そんな事を、見上げた空の色、朝の淡いグラデーションに教えられた気がします。
はい。
それはサムネイル画像のような空でした。
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