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AIの生成物に埋もれた人間を妄想してみる

私のTwitterアカウントのお勧め欄は、AIによる生成画像の話題が多いです。
ツイートを眺めていると、今の所は否定的な意見が多いみたいです。
理由は既存や現行のソフト(って表現するのかな?)に学習させている内容ですね。

そもそも、ソコに(AIの学習物に)問題があるやんか!って感じで、例えば学習元の一次創作者さんへの配慮が無さすぎる事や、肖像権の問題が発端になっているようです。

私はAI(この場合は生成文書や画像などを作る仕組みを表します)のそのものには、反対も肯定もありません。
新しい仕組みが出来たのだな、とか、斬新すぎて「とうとうこんな所まで来たのか…」みたいな、そんなイメージを持っています。
それと同時に考えるのは、この流れを止める事は出来ないな…ですね。

という感じで色々と目にする事を踏まえて、人類の未来を妄想してみたいと思います。
今回は長くなったので、目次を付けて書いて行きます。


AIの脅威とはシンギュラリティにあらず

私の好きなYouTubeチャンネルに、AIについて取り上げた面白い動画がありました。

AIの脅威…とタイトルにあるように、その辺りのお話です。
かなり端折って要約すると、(と言っても端折れていないのですが)

人間の作ったAIはネットから切り貼りする自動コピペ機械

ネットの情報には正解もあれば誤りもある
(悪意のない人為的なミスのイメージかな)

誤情報を切り貼りして、最もらしい話作る事が出来る

人間は脳に多くのエネルギーを使う
人間は最もらしい話を聞いて思考を放棄してしまいがち

思考を放棄した人間は作り出された最もらしい話を、正しい情報として蓄積させていく

AIは最もらしい話を切り貼りして、また最もらしい話を作り出していく

嘘の大量生産が起きる
(情報源を汚染していくので、AIの緩やかな自殺になってる)

大量生産による値崩れが起きる
(そもそも電子計算機は値崩れを起こしてきた)

絵画や音楽などのコンテンツも大量に生産が出来る

大量生産による値崩れが起きる
(取れ過ぎた大根が安く売られるのと同じ)

(動画の内容はもっと続きますし、もっと詳しく話されています)

人間の学習と機械の学習

さて、Twitter上のお勧めの話に戻ります。
AIの学習の話です。

学習についてですが、実は人間も機会と同じように学習をします。
当たり前ですが、りんごの絵を描くにも、りんごを知らないと描く事は出来ません。

「りんごを知らなくてもりんごの妄想が出来るじゃ無いか!」と言われるかも知れませんが、これはりんご以外を知っているからです。

だから「りんご」の言葉や音から似た雰囲気を感じる事が出来るとか、知っている事から知らない事を埋めるように考える事が出来るのも、学習を土壌に人間が妄想や想像をやっているからです。

とは言え人間の学習とAIの学習には大きな違いがあります。
人間は感覚を持っています。
つまり同じ学習内容であっても、吸収する側に人間の個人差があります。そして出力にも個人的がある。個性です。

一方でAIの学習はネットの情報や、作成者が選んだ学習を完全に模範する事が可能です。今のところ、機械に学習させる情報のチョイスや、情報そのものは人間が関わったものになっているけれど、機械が吸収する事自体は完全なコピーと言えるでしょう。
つまりここが人間と機械の大きく違うところ。

そして機械の出力は、人間が指定した事以外をミスとして人間がジャッジします。

だから機械出力の誤差は、人間と違って個性として残れず、劣化とかミスと言う形で残されるか削除されるか…ですね。
これも人間が関わるがゆえに起きる、人間と機械で大きく違うところ…。

学習内容に問題があるとは?

さて、私のTwitter上のAI生成画像反対派の人は、AIの学習内容に問題があると言いました。

それは学習元のイラストが、作者の許可を得ていない事と、出力が影響を強く受けたもの(この場合は完全な作風のコピペ状態)である事から、生成物が著作権の侵害になっていると言っています。
上記の理由は最も適切な考え方で、言われると確かにその通りだと思います。

例えばですが「ピカソ風で大阪城を書いて」と指示をしたとしましょう。
人間なら既に知っている知識や妄想から想像して書き上げるでしょうね。

一方の機械は…と言えば、ピカソの絵を画像として取り込み、誰かがネットに上げた大阪城の絵や写真を取り込んだ上で、それらの情報を切り貼りして作り出します。
これが人間と機械の出力品の大きな違いです。

さて、ピカソはすでに亡くなった人なので問題は無いとか、個人で楽しむなら良いじゃ無いか?と言われるかも知れませんが、それもそうとは言い切れません。
例えば「モナリザ」とネットで検索すると、有名なモナリザの絵画の画像や写真がネット上に上がってきます。

これと先程のピカソの大阪城の事例で考えてみるとどうでしょうか。
検索バーに「ピカソ 大阪城」と打ち込み、既に生成されたネット上のピカソ風大阪城の画像が出てきたとしたら人間はそれをどう考えますかね?
「そんなものは嘘だ!偽物で誰かが作ったんだろう」とわかる人や笑える人は、そんなものが無い事を知っている人だけでしょう。

もし大阪城が現存していなければ。
もしピカソの作品を見た事が無ければ。
その人は生成画像を生成された画像と思うでしょうか?

誰かがお遊びで書いた初音ミクさんの髪色をピンクに寄せたら。
これは別におかしな設定ではありません。
桜の舞う中の初音ミクさんは、きっと桜色に染まって、ピンク見える部分もあるだろう…的な感じで悪意も他意も無い可能性があります。

誰かがお遊びで初音ミクさんにギターを持たせたら…。
ギターを片手に歌う初音ミクさん!かっこいい!だとしたら、悪意も他意も無いですよね。
上記の設定は完全に作者に感性や好みの想像品です。

もしこのような二つの画像を機械が読み込めば。
限りなく、「ぼっち・ざ・ろっく!」のぼっちちゃんっぽい、初音ミクさんを生成するかも知れません。

だからこのような事例は、検索の下位でも、検索にヒットしなくても問題があるかも知れません。

既にどこかのネット上に情報がある…という状態であれば、機械側には学習するチャンスがあると考えられます。
こんな事が横行する時代の行先の恐ろしさは、想像を軽く超えていくでしょう。

生成物の三次元化に至る可能性

さて、今のところ、AI生成物は画像や音楽などのデータに留まっていますが、既に3Dプリンターがあるように、物体へも流用も見えてきます。

いわゆる企業秘密の製造品とか、部品など、そう遠く無い将来に、この辺りにも値崩れが起きるかも知れません。
つまり二次元データに留まらず、話はもっと大きく広がっていくのではないかと個人的には考えています。

生成物が人間に与える影響を妄想してみる

一方で私の器具している事は、生成物が多く現れる事によって失っていく人間の感覚です。
その中に、時間感覚と感性があると考えています。(もっと多くの影響があると思います)

時間感覚への影響

まず時間の方ですが、当たりですが人間は時間の感覚を持っていますので、昔と過去を比べる事が出来ます。
それは自分の記憶や経験があるからです。
過去と現在の違いを差として捉えた上で、それを時間として一本の線状に置く事が出来る。
これはものの経年劣化であるとか、人間の老いとか、成長とかの感覚ですね。

変化を時間の差として、それを時代の変化だとか、時間が流れた〜みたいな時間上に乗せて一つの事象にまとめています。
(これはかなり高度な仕組みを感じますね)

さて。
一方で機械が人間と同じように時間を扱えるでしょうか。
違いはあくまで違いであって、差であり同系列に扱うのは難しいと思います。

指示をすれば出来る…かも知れませんが、学習内容を情報として扱う以上、差は違いにしか成り得なず、追加の指示で差を同一時間上のものだと設定するイメージでしょう。

機械には過去や現在を一本の道筋の様に捉える人間的感覚は持っておらず、持っているのは情報整理の一連の指示要素でしかありません。
pcのファイルで「議事録1」「議事録1 改訂版」と二つのデータがあったとします。これを私たちは、タイトルで時系列を想像ができますし、そう考えて頭の中で整理する事も出来ます。

一方の機械はタイトルから時間差を判別する事が可能でしょうか。
既にファイル名から見分ける指示を学習していたり、ファイル作成日時で判別したりは出来るかも知れません。

ですが、判別が出来るとか、判断が出来るから理解している。…かどうかは、いつまで経っても証明が出来ず不明のままです。
つまり「出来る=理解している」が同一では無い事は、読者さんも自分の人生経験からそういうものだと痛感していますよね。

そして機械の出力品は元情報の切り貼りでした。
機械は製造品に個体差は許されず、出来の不具合や完全品のとの差は、個性に成りえず人間側に出力された瞬間に淘汰されます。
劣化や不良品を人間は選びませんしね。

けれどそれはあくまで人間側の範疇です。機械側…つまりネット上には残るかも知れません。
言い換えると完全品は人間側で残るが、機械の出力した二次元生成物は、完成品としても劣化品としても、ネット上で残り続け、それらは人間のように進化も無ければ劣化も変化も起こらない。

もしこの完成品の精度の高さ(コピー機能)と、ネット上で永遠に不変である事の対の事象に人間が価値をみいだすたとしたら。

何故そこに価値をみいだすのか?は、人間が常に変化し、変わらずを得ない生き物だからですね。
だから完全を求め、変わらないものに憧れ、そこに価値を見るのです。
いつでも同じものが作れる。
いつでも変わる事なく、永遠に現存が保たれる。

これが機械側が与えてくれるのなら、そこに預ける方が良いに決まってる…。
これはそんなに変な妄想では無さそうです。

例えばアバターなどに不変性を求め、老いる事の無いアイドルを夢見るように、人間が人間側にそれを求める。
そして機械はそれを生み出す事が可能である便利な道具だ…ですね。

つまり人間の時間感覚を持ち得ない機械は、人間の時間感覚と矛盾する不変性を持っていて、しかもそれをいつでも同じようにコピー品として生み出す事が可能である。

このような機械側の当たり前の概念が世の中に広がれば、人間は現代人が感じている時間感覚は失っていくのでは無いでしょうか。

今も昔を比べたくない。
いつもで完全な状態を保つ方が良いに決まってる。
若い頃はもっと良かった。
好きだったアイドルを久しぶりに見たら、年を取って劣化した。

もしかしたら、こんな感覚は既に持っているし、実際に起きているのかも知れません。

私の感性は誰かの感性で生まれる

もう一つの危惧は人間の感性のお話でした。
これは学習の事から考えられる話です。

先程にも書きましたが、人間は学習する生き物です。
これは人間が時間感覚を持っていて、現在を経験として時間として括り、それを時間として蓄積し、蓄積された時間を自分の記憶や、体験として常に持ち出す事が出来る感覚を持っているからです。

さて、そんな時間感覚があるからこそ生まれるのが、個性的な感性です。
そして人間の学習には人間の感性が多く関わっていると考えています。

学習を受ける→新たな感性が生まれる→生まれた感性から学習する→感性が磨かれ変化する→学習するものを自分で選び、そこから学ぶ…みたいなエンドレスな感じです。

つまり人間は興味の向くもの、思考性で学習を勧めますが、最初の学習は完全に受け身。
自分のチョイスと言うより、環境に影響を受けます。しかも、そこにも教える側が人間である以上、先生の感性としてのチョイスもあります。

つまり人間の感性の種は自分単体では無く、あくまで他人主導で、学びのきっかけは私では無く私以外の誰かがスタートです。

そして学を受け取る側にも、産まれた環境から得た感覚的なチョイスがあり、その関係性を維持したまま感性は育まれ養われます。
つまり人間の感性は、他の人間がいないと生まれないし育たない。

そして感性は学習の土壌の上にも下にもあります。
人間はコピーとして学習するのでは無く、模写するように自分の感覚や能力に馴染ませながら学習します。

ここで先ほどの、AIシンギュラリティの動画にあった、嘘情報の蔓延や、生成物の汚染が既に世の中に広がっていたとしたら…。
それらが教える側にも学ぶ側にも全く人間に影響を与えないのは、あり得ない話でしょう。

こなると人間は、嘘が嘘と見抜ける為の知識の情報元を失うかも知れません。ネットで調べものが出来ない状態です。

そして感性に最も関わる芸術も、生成動画や画像、生成音楽から人間が学ぶ時代になったとしたらどうでしょうか。

コピペで切り貼りされたバラバラになった生成物そのものに、元作品のような作者の一本化された感性は持ち得ません。
切り刻まれた感性の寄せ集めの生成物。
ここから人間は何を学ぶのでしょうか。

生成物は決して本物には成りえない

ですから人間は真実を見抜く能力と、感性としての感覚を養う能力が奪われると妄想しています。

身も蓋も無い言い方をすると、生成物は、物にもなっていなければ、感性の入る余地も無い、本物にはなり得ない、薄っぺらいものにしかならないのです。

「それでも、生成物にも良いものはあるぞ!」の意見が出ると思います。
確かに出力されたものにも素晴らしいと感じるものはあります。
けれど実はそれも逆の話なんですね。

それはどうい事かと言うと、今の時代の人間は、ある程度の本物を知っている事と、時間感覚と感性持っているからです。

だから生成物にこれは嘘情報だとか、感性が働いて違和感を覚えれば、良いものをかぎ分ける事が出来るのです。

生成物の中に、限りなくそれっぽいとか、限りなく本物っぽいがわかるのは、今の人間には本物の片鱗を見る能力がある事と、良いとか悪いとかの働く感性を持っているからです。

時間感覚と感性の死んだ人間

やがて、嘘が嘘かわからない状態に溢れた世の中になるとします。
人間は真実を見分け、世の中の情報に価値を見る事が出来るのでしょうか。

常に変わらない事が人間の当たり前の感覚になればどうでしょうか。
老いを悪と考えてしまうような価値感に変わりませんか?

一方の人間側も、持っている感性が薄くなり、感動も薄くなれば、怒りも薄くなる。
こうして人間の違和感や見分ける嗅覚のような感覚が排除されていったとしたらどうでしょうか。

そして現物の形になった実物として、機械計算が生み出した「もの」が広がり続けた世の中はどうなるのでしょうか。

まとめ

さて、先日Twitterのフォロワーさんが面白い話題をしていました。

メスの単為生殖が普通になったらどうなるんだろ

https://x.com/sprinvmliyopmx8/status/1777911889265332603?s=61&t=MCbde_dkwqNhHk4p0Gm5BA

私はこちらにこのように返信しました。

徐々に差別が大きくなる→差別化や区部化が進みだす→中央値以外のその他大勢が踏破→小さな差別化がどんどん進む。
やがて踏破の先に全てが均一化する→中身の無い殻だけの卵の完成。
最後は冷え固まって終了…ですかね🤔

何となくですが、機械的とかAIの世界観ですかね?
完全なコピーがコピー生み出す、コピーのミスは生き残れない的な。
オスのみの場合は、コピーが出来ずバラバラになって、もはや同一種の概念が無くなるようなイメージがします。
どちらも行き着く先は本当の孤独でしょうね。

https://x.com/sangathusaezuri/status/1777945755388707097?s=61&t=MCbde_dkwqNhHk4p0Gm5BA

(すみません、今日もTwitterの埋め込みが上手くいかない…)

本当と本物っぽい話が混ざって、何が正しいのか判別が難しいネットの情報。
それを情報元とする世の中。
そして常に今のままが美徳で、それが当たり前に求められて、変化を望まない事から生まれるコピーや模倣品の溢れる世の中。
人間の感性が死んで、芸術やアートのない無機質な世の中。
全てが混ざって同一化し、化石のような人間が増える世の中。

長々と綴ってみましたが、どうですかね。
こんな妄想は実際に起きてほしく無いですね。

だから時間とか感性、特に感性ですが、これを次代の子供には失って欲しくないなと思っています。

もしこれから子育てをすると言う人がいたら、まずは人間の感性を養って欲しいと思います。

そして人間の時間感覚は変化する事が当たり前で、それは悪い事でも良い事でも無く、そういうものが自然であり、人間もそういうものだと感じさせて欲しいと思います。

自分の感性は中二病で判断する

これは蛇足で余談ですが、もしAI生成画像を自分の著作物だとか、自分の作品だと言う人は、数年後でも、1ヶ月後でも改めてその作品みて欲しいなぁと思います。
そして感想を考えてください。

その感想が肯定的でも否定的でも、恥ずかしさや、いたたまれ無さを自分側に感じる事が出来たら、あなたの作品と言って下さい。
恥ずかしさや、いたたまれ無さを感じない人。
またそれを機械側に感じた人は、それはあなたの作品では無い可能性を考えて下さい。

上記の質問の意味がわからない人は、生成画像についてもっと自分で学んで、成り立ちや影響をよく考えてネットにあげて欲しいと願います。
嘘の汚染はこれからの時代に良い影響よりも悪い影響をもたらします。

ん?
この質問の真意ですか?

それは多くの大人が経験しているであろう「中二病」が起きるかどうかで、生まれた生成物が自分の所有物であり、自分の経験として捉える事が出来るかの判断になるかと思ったのです。
人間は常に完成や完璧を求めますが、同時に成長も変化もします。

時間感覚と感性をフルに使えば、自分の作り出した作品に何かしらの感想を持つのは当たり前の感覚でしょう。

それが恥とか何とも言えない気持ちで表したのは、この二つは機械には持ち得ないと思ったからです。
ですからそれを感じないとか、出力された生成物や機械側に求めたとしたら、やはりその生成物は自分の作品とは言いにくいのです。

前回の指示はこの程度だったけれど、同じ指示でも出力が良くなった…とは、あなたの成長ではなくて機械側の変化なので、自分側ではないですね。

また、機械のスペックは同じでも、前よりも的確な指示が出せたので、良い出力が出来た…の時は、前の出力品を今の出力品と見比べて下さい。
その際に、旧作に自分の指示不足や至らなさ、恥や、いたたまれ無さを感じますか?です。

筆者の結論は「生成物は作品に成りえない」

私の結論としては、AIの生成物は自動的に生成された物なので、自分が生み出した「オリジナルの作品物」には、なっていない、成り得ないと考えています。

スーパーに出かけて、入り口のトマトを手に取って見て下さい。
このトマトは何処から来たのか。
そこに思いをはせれば、一次産業からそれに携わる人の多さを想像する事が出来ます。
つまり、もっとモノを見て、あれこれと考えるのが人間じゃないかって話です。

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