見出し画像

【DESIGNER INTERVIEW: POSTELEGANT 中田優也】日本発のラグジュアリーブランドになる

ポステレガント(POSTELEGANT)の中田優也さんが作る服は、計算し尽くされた大人のためのベーシックな服。ユニセックスで提案するそれらの服は、着る人のたたずまいを整え、身に付けてみれば上質な素材と考え抜かれたパターンで、着る人を魅了します。そのデザインを素材の面で支えるのは、生まれ故郷である尾州産地のウール素材。価格から逆算しないものづくりを目指し、日本発のラグジュアリーブランドに歩を進める、その途中経過を記録するべく、インタビューしました。

「ビームスのオレンジ色のビニール製ショッピングバッグ。中学時代は、僕あれをカバンにしてたんで(笑)。部活とかプールバッグとかで使ってました。」

画像1

ー中田さんの服がこの何シーズンかで、ぐっと洗練されて、ブランドが目指す方向性が服にしっかりと表れていると感じています。大人であることを肯定的に受け止められる服が増えることはいいなあと。まずはファッションに興味を持ったきっかけから教えてください。

3歳上の姉がいるんですが、僕が小学生の時、姉は中学生なので、その影響でファッションに興味を持ちました。時代的には『ジッパー(Zipper)』とか『キューティ(CUTiE)』といった雑誌が全盛で、裏原宿ファッションが注目されていた時代でした。姉の部屋にあるそういう雑誌を、普通に見ていたっていう記憶がある。夕方まで友達と遊んで暗くなって帰宅しても、夕食ができるまでの何時間か、家にいてもつまんないから、自宅近くの本屋に行ってファッション誌を、本当に毎日のように立ち読みしてたんですよ。メンズ誌もウィメンズ誌も、手あたり次第、立ち読みしていました。中学校ぐらいまで、ずっとそんな感じでしたね。だからものすごい衝撃的なきっかけっていうのはないんですが、でも、小学校の卒業文集では10年後の自分について「自分のブランドを持っている」みたいなことを書いてるんですよ(笑)。だから小学生の頃から夢は変わってない。

ー当時は好きなブランドの服は名古屋に買いに行くんですか?

買い物は名古屋で、栄のビームスとかにはよく行ってましたね。姉の影響もあって、ヒステリックグラマーとかが流行ってる時代だったので「あの黄色のビニールバッグ欲しい!」みたいな。あとはビームスのオレンジ色のビニール製ショッピングバッグ。中学時代は、僕あれをカバンにしてたんで(笑)。部活とかプールバッグとかで使ってました。

ー高校生ぐらいには、何かアクションを起こしましたか?

地元にはファッションの高校もあるんですけど、行かず。普通の高校に進んだんですが、実は中学2年生の夏休みに、アメリカのオレゴン州ポートランドという街に2週間だけホームステイにいったんです。父の勧めでしたが、それがきっかけとなって、英語がちゃんと話せるようになりたいという希望がありました。それで高校は普通科なんですけど、集中的に英語を勉強できる単位制のある高校に進んだんです。

ーまずは語学習得から入ったんですね。大学は、名古屋学芸大学を選びます。そこから本格的にファッションの道に進みますよね?

ファッション造形学科です。本当は高校を出たら文化服装学院に行きたかった。田舎者なんで、東京に行きたいと思ってたんですけど、親としては、四年制大学を卒業してからなら行ってもいいぞみたいな感じで。まずは地元でファッションを学べる大学を探してくれたんです。そうしたら、名古屋学芸大というのが近くにあるということが分かり。その隣に名古屋外国語大学っていうのがあって、そこは留学の制度が整っているから、そこはどうや?と。それを目指して行ってこいみたいになって。

ー息子さんの未来を睨んだ、ご両親のリサーチ力には頭が下がります。でも中田さんの願いは見事に織り込まれていますね。

そうですね。それが嫌ではなかったです。大学には片道2時間かけて通ってました。僕は留学がしたくて入ったのですが、留学のための10カ月を確保しつつ、4年で卒業するためには、逆算すると3年の前期までに4年分すべての単位を取らないといけない。だから授業をパンパンに詰めてましたね。パターンメーキングの授業が好きでした。子供の時から、図工の時間とかプラモデルとかレゴなんかも好きだったんですよね。その延長に服作りがあった。

ー留学先は、大学と提携しているパリのAICP(Académie Internationale de Coupe de Paris)を選びましたよね? 行ってみてどうでしたか?

平面も立体も勉強するんですけど、フランス人の先生が冗談で「日本人は、平面でも、1ミリもずれたくないといった感じで作業する。いや、もうほんと日本人はトレジャポネだよね」と、超日本人的だねって言うんですよ、褒め言葉なんだけど、ちょっと皮肉っぽくもあり。でもそのくらい、日本の方が平面に関しての理解と実技をすごくきっちりと教える。海外は平面はロジックとして教える程度で、あとは立体がメインで。それももちろん、すごい面白かったんですが。

ーパリでの生活はどうでしたか?

僕は本当にフランス語を全くやらずに行ったんですよ。数字の1から10も言えないぐらいの状態で行っちゃって。でも日本人のご夫婦がやっているシェアハウスに、運よく入居できて、そこでは毎晩遊びながらフランス語のレッスンを3、4時間してくれるんです。トランプのゲームをしながら動詞の単語をひたすら覚えるとか(笑)。結構スパルタでしたね。とはいっても、最初の3ヶ月くらいは授業がほぼ全く分からない状態で、クラスの日本人の子に聞いたりしてました。その代わりに僕は日本の大学で学んだパターンテクニックを教えるといったギブアンドテイクでなんとか成り立っていた状態ですね。

ースタージュ(インターン)もしましたか?

留学中にスタージュを経験しました。学校が、3ヶ月平面、3ヶ月立体、その後4ヶ月半ぐらいがスタージュ期間となっていたので。マルジェラ(Maison Martin Margiela)とか、セリーヌ(CÉLINE)に行けそうだったのに、いろいろタイミングが合わなくて行けなかったんです。でもマルジェラにいたことのある、ルッツ(LUTZ)がスタージュを受け付けていて、それで3か月半ぐらいお世話になりました。ルッツは当時のパリでも独特なスタンスでしたが、ほんとインディペンデントで頑張っていた。

「ファッション業界のとても一般的なことを学ぼうと思ったら、やっぱり大手の企業の方が良いなと思いました。しかも、タイミングよくベイジ(BEIGE,)の求人があって、それでオンワードを選んだんです。」


ー帰国して大学を卒業したのが2011年。そこから文化を目指したのはなぜですか?

留学制度を使っているから帰国はしないといけなかったんですが、もう一度パリにも行きたかった。でもルッツにいた日本人パタンナーのかたが、自分がルッツの中でチーフを任されてるのは、日本式のパターンテクニックを知っているから。やっぱり一度は日本で仕事をして、企業のやり方を見た方がいいんじゃない?とアドバイスをくれて。じゃあ日本でまず就職しようと思って、日本に残ることを決めたんです。でもその前にもう一度、今までのことを整理したい気持ちがあって、東京の文化ファッション大学院大学(BFGU)を選んだんです。

ーBFGU修了後に中田さんがオンワード樫山(以下、オンワード)を選んだのは意外でしたが、その選択のきっかけは、そのルッツのチーフパタンナーのかたの一言だったんですね。

デザイナーズブランドも興味があって受けたりしたんですが、仕事の流れとか、スケジュール感も、結構独自のルールがあるじゃないですか。だからファッション業界のとても一般的なことを学ぼうと思ったら、やっぱり大手の企業の方が良いなと思いました。しかも、タイミングよくベイジ(BEIGE,)の求人があって、それでオンワードを選んだんです。

ーオンワードではイメージどおりの経験ができましたか?

入って1年目から作業的なことはほぼ全てやるんですけど、仕事に関しての提案はどんどん出すことができる環境でした。例えばメールマガジンをこういうデザインにした方がいいんじゃないかとか、こういう写真を撮ってアップした方がいいんじゃないかみたいな細部まで色々。もっとできる!と思ったことは、提案してどんどんやらせてもらえて。

ーまるで自分のブランドを立ち上げるための、疑似体験のような。

ほんとそうですね。シミュレーションできた感じ。そういう企画のこととかも、重要な会議にも入れてもらえて。でも一年ぐらいした時に、チーフの右腕だったかたが辞めてしまうんですよ。その後から、ほぼ全部の仕事を回す必要が出てきて。大変だったんですけど、ものすごい勉強になりました。結果として、2年半ぐらい勤めて、その後、自身のブランドを立ち上げました。

ー独立すると伝えたとき、チーフはびっくりしますよね?

僕も急に辞めますとは言えないから、一人いた後輩に、仕事をどんどん教え込んで、自分が抜けてもブランドが回るようにしていました。相当スパルタでかわいそうでしたが。そういうのを見て、多分何となく分かっていたと思うんですよねチーフは。自分のブランドを持ちたいってことも言ってたし、そのことをすごく分かってくれて、円満退社でした。今でも展示会を見に来てくれて、すごい応援してくれてる感じですね。

ー晴れて独立したわけですね。

その時が27歳。「やっと取り掛かれる!」といった感じではありましたけど、結構色々経験していても、立上げのノウハウというか、まずどうやって何を最初にしたらいいかはあんまり分からなかった。そうしたらラッキーなことに、今はもう無いですが、文化ファッションインキュベーションのアトリエに入れたんです。そこにはBFGUの同級生達がすでに入っていて、ブランド立上げの初期作業を経験していた彼らに、色々教わることができた。そうして、ひとつひとつ整えていったわけです。

「学生時代のコラボレーションがきっかけで、自分が生まれた場所に近いエリアが、こんなに凄いんだということを知ったんです。その頃から自分のクリエーションは、生地にこだわって、生地からデザイン発想するというプロセスのほうが、やりたいことができるということに、だんだん気づいてきて。」

画像2
画像3

POSTELEGANT 2021年秋冬コレクションより


ー今では生まれ故郷、尾州産地の素材をメインとして使っていますが、尾州産地に生まれた、そのことを意識したのはいつ頃からですか?

BFGUの時に、産地の機屋さんと学生が組む産学コラボレーション『フォルムプレゼンテーション』(FORM PRESENTATION)というコンテストに参加したんです。2年連続で選ばれたんですが、最初の年が尾州で、産地見学もセットで付いていて。そのタイミングで改めて、自分が生まれた場所に近いエリアが、こんなに凄いんだということを知ったんです。その頃から自分のクリエーションは、生地にこだわって、生地からデザイン発想するというプロセスのほうが、やりたいことができるということに、だんだん気づいてきて。だからその後のインターンには、ミナ(minä perhonen)とかイッセイミヤケ(ISSEY MIYAKE)とかに行きました。すべての商品をオリジナルの生地から作っているブランドは、どういう風に仕事をしているのかが知りたくて。BFGUは自由な校風で大好きでしたが、学校の課題提出と、そういったコンテストのための作品作りとインターンとで超多忙だったから、記憶が飛んでいることも多いです(笑)。

ー多くのブランドを見ていると、自分らしさに気づいたタイミングで、ブランドを代表するアイテムが生まれ、それがヒットすることで、さらに多くのバイヤーから意見をもらいますよね? 実はそこが次の試練で、バイヤーの言いなりになりすぎると自分を見失なってしまうこともある。たとえば値段が高すぎるとか、全体の点数が少ないとか。心を鍛えないといけない時期が必ずある。中田さんはそういう段階を、どのように乗り切って今に至りますか?

うちはセールスも人に任せず、自分でやっているんです。だから1番最初のシーズンなんかは、出版社とか大手のバイヤーさんとかは、自分で名前も住所も調べて、もう手当たり次第インビテーションを送るわけなんですけど、まあ基本的には何の返事もなく(笑)。ブレイクした最初のきっかけは、繊研新聞にルックが載った時で、名古屋タカシマヤさんが声を掛けてくれたのが始まりでした。岐阜県出身ということで見てくれて。もう1件、最初のシーズンから買ってくれているギャルリーペン(galerie P+EN)という、名古屋駅の近くにあるギャラリー兼セレクトショップがありますが、そこは大学の時の先生が紹介してくれたんです。だから最初は本当に地元の繋がりからのスタートでした。その後、伊勢丹でポップアップをさせてもらったり、雑誌の『シュプール(SPUR)』見ましたとか、ちょっとずつ輪が広がってく感じが見えてきて。

画像4

うちに来るバイヤーさんは、周囲の意見に左右されることなく、とにかく自分が着たいから買いつける、仕入れてみたい!といった感覚で展示会に来てくれています。それでも、値段が高いとか言われる事が結構ありました。新人なのに、コート15万て高くないですか?とか、ブランド立上げの初期の頃は、よく言われてた。でも気にしないで出しつづけていると、今となっては15万安いですねといった声の方が多くなって来る。自分の考えを分かってくれる人がいるってことと、そういう人達がちゃんと見に来てくれているという絶対的な信頼感があるから、人に何かネガティブなことを言われても聞き流せる。高いって言われたその数時間後に、違うバイヤーさんが来て「これめっちゃいいじゃん。もういくらでも全然いいわ」なんて言ってくれたら、そちらの意見を大切にしている自分がいます。

ー高くても本当に気に入った服を買うという消費者は確実にいますよね。しかも、年齢に関係なく。

実は僕は作るとき、値段は全く考えないんですよ。やりたいことをまず優先するっていうのを、なるべく心がけています。だから、本当に全然採算取れない品番とかいっぱいあります(笑)。でも、このぐらいの価格だったら自分が嬉しいなとか、それが原価率が何%であろうと、そういう感覚を大切にして値付けしている。こだわって作っても、結局、1着も売れませんでしたでは、ブランドをやってる意味が全くないし、作ったからには着て欲しいですし、着る人に届いてやっと完成だと思うから。だから、ちゃんと買ってもらえるような値付けをします。その辺が分かる人に買い続けてもらって、今がある。

ー小さいブランドにとって原価率を細かく考えていくことは大切なことですが、それだけに囚われない方法で進んでいきたいということですね?

企業に入れば、必然的にそういう考え方をしますよね。でも実はそういうことじゃないんじゃないかなって思って。自分のブランドでは、枚数が少なくてもちゃんと届くような仕組みにしたいなというのがすごくありました。

画像5

ー9月初旬に開催された「Rakuten Fashion Week TOKYO 2022 S/S」の中で、中田さんもデジタルで新作を発表しましたよね? 実は少しだけ期待が外れました。デジタル表現になったことで分かったことは、あらゆる人が情報を平等に共有できるようになったということと、やはりフィジカルなショ―に勝てる表現は無いんだということだと思います。と同時に、今まで以上に配信された映像を真剣に見ている人もいると思うんです。コレクションに参加するということは、日本に来ることができないバイヤー達の視線も意識していくことが大切なんじゃないかと感じていて。その点において、今回のポステレガントの映像で伝わったかな?というのが、率直なところです。

そういういろんな賛否欲しいです。良くも悪くも、本当の気持ちが聞きたいから。今回、オンスケジュールで発表しました。多くのブランドは、ショー形式の動画を撮影し、編集し、アップするのが主流で、それが東コレの正解としているブランドが多いけれど、もっと何か色々できるんじゃないかって思ったんです。だから今シーズンの“ムード”に焦点を絞って伝えようと、服をあまり見せない、内容構成にしました。服や素材感をリアルに感じたい人は、展示会に来て欲しいと思ったんです。

ー過去に『TOKYO FASHION AWARD』に選ばれて、パリで3回の合同展に出展していて、国内でのフィジカルなショーも経験済み。他の多くのブランドとはスタートラインから違いますし、もっともっと新鮮な何かを期待していたんです。

『TOKYO FASHION AWARD』に挑戦したのは、確かにパリで自分の服に対するリアクションが見たかったからです。最初はそんなに大きなリアクションはなかったんですけど、回を重ねるごとに、少しづつ良い反応もあったりして、実は卸先も決まってたんですけど、コロナになって卸せず。海外のバイヤーは、そのブランドが国内でどのポジションにあるかとかに関係なく、まっさらな目で服を見てくれるし、ジャッジしてくれる。海外にチャレンジする気持ちは、今後も持ち続けたいです。

「ディレクションの仕事も、自分のブランドでもそうですが、やっぱりやるからには、作る側の人から買ってくれた人まで、関わる人みんなが良くなっていって欲しいというのがあります。」


ー昨年から、ピセア(PICEA)というベビーカシミヤ素材専門のニットブランドの、クリエイティブディレクターをしていますよね?できあがったものは、ポステレガントの延長線にあるようなベーシックでありながら今着たいと感じるデザインです。ディレクションの仕事に取り組むときはどんなことを考えますか?

ベビーカシミヤは、生後約1年以内のカシミヤ子山羊のファーストカットだけを使った超稀少高級素材なんです。ニットって布帛と違って、ちょっと特殊なので、デザインを経験できるのは嬉しいこと。もちろん高価ですが、でも着たら忘れられないと思います。実は他にも、墨田区の縫製工場さんがやっている、イキジ(IKIJI)っていうファクトリーブランドに関わっています。ネーミングは江戸の“粋”から来てるんですけど。メンズカジュアルです。

自分のブランドでもそうですが、やっぱりやるからには、作る側の人から買ってくれた人まで、関わる人みんなが良くなっていって欲しいというのがあります。ディレクターとは、そういう仕組みや、ブランドの立ち位置や方向づけを導く仕事だと思うから。そういうのを、僕が分かる範囲でちゃんと見誤らないようにするっていうことを、意識してます。

ー関わる人すべてが、一緒に上がっていくっていう考え方は良いですね。それこそがSDGs。

売り上げをバーンって伸ばすとか、そういうのももちろんね、企業としては大事なんですけど、じゃあそれで、中の人が疲弊してていいのかっていうと、絶対そうじゃないから。それよりも、みんなが「自分がやったんだ」っていうプライドを持って、10年20年、ちゃんと続いて欲しい。そうするためには、じゃあ1年目はこれをしなきゃいけないですよねっていうのをちゃんとやる。

自分のブランドの進め方も、そういう感じを意識してます。本当はセールスをつけちゃえば、もうちょっと卸先がドカンと増えるかもしれないけれど、そうなると、もう手に負えないというか。自分の把握できない規模になっちゃったら怖いっていうことじゃなくて、ちゃんと5年後や10年後を見て、今だったらこのぐらいだよねっていうのを、無理せずにやっていきたい。そのためには、ある種、マイペースにやっていくことが大切だと思っています。

「そこに横たわる一番大きな問題点は、ただそれを生かしてデザインする国内のプレイヤーがいないだけだと思う。」


ー今までのお話しを聞いていると、とても冷静に自分育てをしていて、必要な時間をかけて目標に向かって進んでいますよね。ファンも着実についていて、ブランドを表現する形容詞も整ってきた。中田さんの考え方や、ブランド運営についてのやり方を、共有する同志というか、同じ志の人が集まって、東コレという舞台で、新鮮な表現方法とか見え方を提示していけたらいいのかもしれませんね。

僕がやってることもそうなんだけど、東コレで、こういうゾーンでやっていいんだということが伝わって、そういうブランドがもっと増えればいいなって思っていて。

ーこういうゾーンっていうのは?

ポステレガントは、客層で言うと本当にアッパーなハイエンドで、インポートの中に入ってくるみたいなポジションだと思っています。でも東京発信のブランドって、ターゲットが若くて、自分たちの周りの人物像っていうのが主体となっているから。その沢山あるコミュニティの輪が、複雑に重なり合っている状態が、東コレの良さなんだとは思います。でも、じゃあラグジュアリーな服は全部インポートに任せていいのかと。そのインポートの服には日本製の生地が使われているのに、日本ではうまく扱われていない、もどかしさがありました。縫製工場だって、世界レベルの海外ブランドの仕事をバンバン受けているところが沢山あるのに。

そこに横たわる一番大きな問題点は、ただそれを生かしてデザインする国内のプレイヤーがいないだけだと思う。高級服はインポートブランドにお任せ、みたいな価値観になってしまわないで、国内でこそできる高級服があってもいいと思うんです。自分はそこにいたい。そう思ってずっと取り組んでいるんですけど。これだけネットが発達してきたら、黙っていても、世界からライバル達が押し寄せてくる。だからこそ、もっと世界の中の自分のポジションというのをしっかりと見定めないといけないと思っています。

中田優也 Yuya Nakata
1988年岐阜県生まれ。2010年、Académie Internationale de Coupe de Paris卒業。2011年、名古屋学芸大学卒業。2013年、文化ファッション大学院大学を主席で修了し、株式会社オンワード樫山に入社。2016年に独立し、2017年「POSTELEGANT(ポステレガント)」をスタート。2019年「TOKYO FASHION AWARD」受賞。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?