幸福論 - 子ども時代のまどろみのひととき

大学生のある期間、幸福とは何か気になって調べる機会があった。

過去の哲学者、アリストテレスやショーペンハウアーが語る幸福論は身体の健康について繰り返し述べていた。何にもまして身体が健康であることの大切さが述べられていた。
現代は過去のどの期間に比べても死亡率が減少し、平均寿命が伸びた世界だ。抗生物質の発見・発明が行われるまで世界人口の大多数が感染症で亡くなっていた。20世紀の始めのときでさえ、同級生の10人に3人は20歳まで生きることが出来なない世界の有り様であった。
そんな時代を生き抜いてきた人たちにとって、病気になること、身体が弱いことは生命の危機に瀕することとほぼ同義であったに違いない。

現代は公衆衛生、医療技術の発達により、健康の意味が変わってきている。健康は身体的側面だけで判断されるものではなく、精神的、社会的、スプリチュアルな側面でも不自由がない状態を指すようになっている。多少の持病があったり、ダウン症だったりして、身体的には多少不自由があったとしても、幸せを勝ち取れる時代になっている。

そんな生きる中でどう幸福を感じるか、幸福をどう勝ち取るか、どんな状態の幸福を望むか、などについて語る幸福論とは一線を画する幸福を提示してきたのが、ヘルマンヘッセの幸福論だ。

幸福論と題名が付けられたこの本の内容は随筆や論説文ではなく子どもが主人公の短編小説。子どもが朝起きて陽光を浴びて街の喧騒と遠くから鳴り響くパレードの音に耳を傾ける。そして窓から差し込む陽光を浴びてまどろんでいる、世界を純真に感じていた幼い時代の朝の一場面。それを描いたものであった。

子ども時代の自然や社会の厳しさをまだ知らず、感性のままに生き、起こる場面一つ一つを素直に受け取る生活。その中でも暖かい季節で、ベッドの中に差し込む陽光で目が覚め、まどろみの中で気分を高揚させる街の中でのイベントが聞こえていくるあの一瞬。そのひとときを超える幸福を感じることはないだろう、という内容であった。

ヘルマンヘッセが示す人生で最高の幸福を味わう機会は過ぎ去ってしまったかもしれない。だが、社会の喧騒を全部忘れ、身の回りにある一つ一つの些細な事象や出来事をありのままに受け止めて喜びを感じる。それが幸福を感じるための一つの道であるのだろう。


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