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3分講談「フェノロサと夢殿」(テーマ:奈良)

奈良の名所のひとつといえば、法隆寺があげられましょう。法隆寺には、「夢殿」と呼ばれる建物があります。夢殿には、聖徳太子の等身大の姿を象ったとも伝えられる、大きな観音像―救世観音が安置されております。現代でも、春と秋とに期間限定で開帳されていますので、ご覧になった方もいらっしゃるのではないかと思いますが、この観音像が世に見(まみ)えたのは、意外にも、明治時代も半ばになってからのことでございました。(①)

明治初年。日本国内には、神仏分離令をきっかけとした廃仏毀釈の嵐が吹き荒れておりました。長らく信仰の首座を占めてきた仏教が軽んじられ、全国各地の寺院や仏像が次々と壊される―。そんな状況を、冷静な目で見つめ憂えた、一人のお雇い外国人がおりました。アメリカ人哲学者のアーネスト・フェノロサでございます。フェノロサは、東京大学で教鞭を取る旁ら、日本美術に深い関心を寄せていました。中でも、寺院建築や仏像に興味を持ち、それらの保護・調査活動に力を注いでおりました。

明治十七年八月。政府からの命を受けたフェノロサ一行は、うだるような暑さの中、奈良・法隆寺を訪れました。目的は、寺の建物の内部を調査することでした。しかし法隆寺側は色よい返事を致しません。それもそのはず、ことに夢殿は、寺僧でさえ妄りに入ることを禁じられていました。中に安置される厨子に至っては、開ければ仏罰が当たるという伝承があり、数百年間一度も開かれたことがありません。

「…やっぱり、開けますのんか?どうしても?やめといたほうがよろしいと思いますけどなあ…。なんでも昔、無理に開けようとした人が、目えつぶれて死んだっちゅう話でっせ?…あんさんも、あんじょう気いつけなはれや…」

まあ、法隆寺の僧がこんなことを言ったかどうかは分かりませんが(①)

しかしここで開けなければ、廃仏毀釈の巻き添えを受けて壊されてしまうかもしれない。何日にも亘る押し問答の末、ようやく中に入ることを許されたフェノロサ一行は、寺僧の立ち会いのもと、誰も中を見たことのない厨子を開けることになったのです。(①)

堂の中は、夏とは思えないほどひんやりとして、黴臭い。中央には、天井まで届くかという大きな厨子が安置されています。その扉の錠前に鍵を差しこむと、ギギ、ギギ…ガチャリ。錆び付いた鍵の開く音が堂内に響き渡り、ついに数百年の封印が解かれました。この時、立ち会いの僧の何名かは、恐れをなして逃げ出したそうですが―。扉をゆっくりと左右に開くと、白い布で何重にも包まれた、高さ七尺もあろうかという像が現れる。布の上には、数百年分の塵・埃がぎっしりと積もっている。埃と臭気にむせ返りながらも、調査団は慎重に布を解いていきました。(①)

そしていよいよ、最後の一枚が取り去られるわけですが、その時の感動を、後にフェノロサはこのように書いています。

「驚嘆すべき世界無二の彫像は忽ち吾人の眼前に現はれたり」

目に飛び込んできたのは、細やかな文様が彫り込まれた重厚な光背、そして、手には宝珠を持ち、穏やかなアルカイックスマイルを浮かべた観音立像。全身を彩る金箔は、年月を経てなおその輝きを失わず、金褐色の鈍い光を放っている。調査団の人々も立ち会いの僧らも、しばし言葉を忘れてその神々しい姿に見入ったそうでございます。

国宝・救世観音発見の逸話、「フェノロサと夢殿」の一席。

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