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3分講談「十返舎一九の最期」(テーマ:花火)

「この世をば どりゃおいとまに 線香の 煙とともに 灰さやうなら」。

 江戸時代後期に活躍いたしました戯作者・十返舎一九は、こんな珍妙な辞世の歌を残したと伝えられております。
 駿河国の武家に生まれた一九は、二十代で武士の身分を捨て、大坂で近松門左衛門の門流にて修行、その後江戸へ出て、当時出版界を牛耳っておりました版元・蔦屋重三郎のもとで、黄表紙作家として修行を積みました。実生活では、派手で風変わりで遊び好き、一度はお堅い商家に婿入りしたものの放蕩が過ぎて離縁されるという有様でしたが、一九の書く作品は滑稽で風刺に富み、だんだんと読者の心をつかむようになります。
 そして、享和二年(1802年)に出版いたしましたのが、『東海道中膝栗毛』。ご存じ・弥次さん喜多さんという名コンビの、お伊勢参りの珍道中を描いたこの作品は、空前絶後の大ヒットとなり、次々と続編が出版されるに至ります。当初は伊勢参りをしたあと、上方見物をして江戸へ帰るという筋書きでありましたが、まだまだ完結してほしくない、続きが読みたいという読者の声に押され、弥次喜多は大坂から江戸には戻らず、讃岐の金比羅、安芸の宮島へ足を伸ばし、今度は東海道ではなく木曾街道を通って信濃の善光寺・上野国の草津温泉を巡る羽目になりまして、ようやく江戸に帰ってまいりましたのは、初編の発行からなんと二十年後という、「ONE PIECE」も顔負けの長期連載だったわけでございます。
 さて、一躍人気作家となった一九でありましたが、寄る年波には勝てず、やがて病の床に伏した。病は日に日に重くなり、もはやこれまでと、枕元に弟子たちを呼び寄せます。皆が神妙に聞いておりますと、「わしが死んだらな、土葬ではなく必ず火葬にしてくれ。そしてな、この頭陀袋をわしの首から提げてくれ。必ずだぞ。あ、袋の中身は決して見るでないぞ」。わけのわからない遺言とともに小汚い頭陀袋を渡されましたものですから、弟子達はしばしぽかんとしておりましたが、「生涯変わったことの好きだった一九先生のことだから、きっと何か思惑があるに違いない。言うとおりにして差し上げよう」と、一九の亡くなりましたあと、言われたとおり袋を亡骸の首にかけまして、棺に入れて焼き場へと運びました。
 それが天保二年(1831年)8月7日、もう日も沈もうとする夕方のこと。一九の棺が火葬場へと入ってゆきます。「あの一九先生もとうとう、灰になる日が来たのだなあ」と、皆がしみじみと手を合わせておりますと、突然焼き場の中から、ヒュー、ドーン!!という大きな音。何事かと顔を上げますと、目の前の夜空に、大輪の花火が打ち上がった。一九が首に掛けさせました袋の中には、なんと花火の火薬が仕込まれていたのでした。「こりゃ最期まで先生らしいお遊びだ、たーまやーー!」集まった人々は、泣き笑いをしながら、夜空に打ち上がった一九を見送ったとい申します、十返舎一九の最期にまつわるお話でございます。

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