朝倉宗滴の実力。 「マイナー武将記」


こんにちは!実田成実です!今回は、マイナー武将記です。どうぞ読んでみて下さい!

・出自


朝倉宗滴は1477年(文明9年)、朝倉敏景の八男として誕生しました。越前国の戦国大名・朝倉氏の家臣。朝倉貞景・朝倉孝景・朝倉義景の3代に渡り宿老として、補佐しました。ちなみに宗滴は法名で諱は教景でした。

・密告する宗滴

1503年に、敦賀城主であった朝倉景豊が謀反を起こしました。朝倉景豊は宗滴の義兄であり、景豊派に加担するよう求められました。しかし、それを断るため幼少期を過ごした竜興寺に出家し、謀反の企てを朝倉家当主・朝倉貞景に密告したらしいです。景豊は謀反の咎により自害。対して宗滴はこの功により、宗滴は金ヶ崎城主として敦賀郡司になりました。義兄密告するんだ…(怖)


・チートのような強さ

そして、数年後、加賀を統治していた一向宗(加賀一向一揆)は勢力拡大を目論み、度々越前に侵攻していた。これには中央の権力争いが深く関係していました。室町幕府管領・細川政元と本願寺は親密関係にあり、政元の強い要請により本願寺が反細川派である朝倉氏を含む北陸諸大名を攻撃するようになりました。

1506年3月、加賀一門の本泉寺住持蓮悟は越中の長尾勢・能登の畠山勢打倒の檄文を発し、6月になるとその騒乱が越前に飛び火するようになりました。

そして、同年7月、加賀国・越中・能登の一向宗門徒が越前で起こった一向一揆に加勢するため越前甲斐氏の牢人衆らと合流し越前へと侵攻を開始した。これを迎え討つため宗滴を総大将とする朝倉・他門徒の連合軍が九頭竜川一帯で対峙した。これが永正3年の一向一揆(九頭竜川の戦い)である。この時一向宗勢力は30万を上回る勢力となっていたと言われている。(30万は相当の誇張はあったと思われる)対する、朝倉宗滴軍は1万1000ほどであった。そして、九頭竜川流域各地で、激戦が繰り広げられた。8月6日の中ノ郷の戦いを期に、一向宗側が総崩れとなり朝倉軍は勝利を収めました。つ~よw

美濃の内乱に介入した浅井亮政を牽制するため、六角氏と協力し小谷城へ出張る。そして、5ヶ月に渡って小谷城の一角に「金吾嶽」を増築、六角氏と浅井氏の調停役を務めた。このときは亮政をよく助けたため、以後は朝倉・浅井家は固い絆で結ばれましたとさ。

他にも朝倉宗滴のチートっ振りはすごく、1555年7月21日、越後上杉氏の長尾景虎に呼応して、加賀一向一揆を討つべく加賀に出陣した。7月23日に加賀に入って南郷・津葉・千足の3城を攻撃して1日で全て落とした。だがしかし、一揆側も朝倉軍に反撃し、一進一退のまま勝負はつかなかった。(´・ω・`)

・チート爺様、死す

しかし、出陣途中に、倒れたため、姪孫(てっそん)の朝倉景隆に総大将を任せて一乗谷に帰還した。宗滴は手厚い看病を受けたが。しかし、9月8日に一乗谷にて病死した。宗滴の死後、後任の総大将となった景隆は9月から10月にかけて加賀の各所を攻めたがほとんど戦果は挙げられなかった。そしてこのまま、朝倉家は滅んでいくのであった…


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