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「くれた」が怖い

人付き合いをする中で人の言動を受け取ったり、人になにかしたりするのは普通のことだが、
こちらは業務的に行ったことを「いつも支えてくれた」「そばにいてくれた」みたいに大げさに感謝されるのが怖い。

次を期待されるのが怖い?
拡大解釈されているのが怖い?
ヒーローに仕立て上げられるのが怖い?
こちらの意図が汲まれていないのが怖い?

正体は分からないが、とにかく怖い。

「気持ちを察して行動してくれる」というのをしばしば優しさだとか気づかいだとか言われるが、
私は「気持ちを察し」てしまった時点で、その人が求める言動をやりたくなくなってしまう。たとえそうする予定であっても。
行動する側として、「自分がしようとおもって勝手にやった」ことが過大評価されて「寄り添ってくれた」になるのが怖いからかもしれないし、
「私の気持ちを察しているだろうにお前は私のほしい言動をくれないだろう?」とムキになってるのかもしれない。

たぶん、私がそういう都合のいい存在にとびつきたい性質があるから相手もそうだと思って、過大評価されたときに「相手の都合のいいドラマチックなヒーロー役に勝手に抜擢された」と思うのかな。

しかも、私は変に俯瞰するせいで「私に気を使って寄り添おうとしてくれてるなら情けはいらない」「お前がやりたくてやってるなら受け取る」と、寄り添い行動を拒絶するくせがある。

だからより一層、相手の行動を過大評価して寄り添い行動を自給自足する人に妬みと恐怖を感じるのかもしれない。

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