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追いかけて、届くよう。#2

こんにちは。『REALITY』ライバーのみうみうです。前回は、私の原動力は[Alexandros]なのだ!ということを熱く熱く語りましたので、まだの方はぜひ。今回のテーマはこちら。

ペルソナもあなたなのだ

先日、とある占いで言われて気になったワード『ペルソナ』。仮面をつけた自分、とでも例えれば今は十分だ。
最近、「お前はお前なんだぞ」というキーワードがやけに目につく。昔から、後で振り返ってみると、あの時ああしてたことってちゃんと意味があったんだ!って感心する事が多い。

ということは、今はこれを理解する時なんだろうから、とりあえずちゃんと結論づけてみよう。

仮面をつけた私といえば、答えは『配信者の私』だろうね。むしろそれしか考えられない。多かれ少なかれ、人は人や環境が違えば異なる自分を見せるものだろうが、私ってものはどこまで生きても私でしかないんじゃない?って話じゃないかな。先の占いでも「ペルソナのあなたも立派なあなたですよ。自分の一部として認めましょう」みたいなことを言われたわけで。

配信者としては憧れのアーティストでいたい

過去に書いたが、私は配信中に限っては、[Alexandros]の川上洋平さんそのものになりたくなる瞬間がある。
それはややこしい話では全然なくて、洋平さんのカリスマ性と脅威のパフォーマンス力を発揮して、バチバチに盛り上げたいんだってだけの話だ。洋平さんの演出力はもはや音楽の神に愛された、というか神のなせる業でしかない。
実際、歌唱力からして、足元にも及べないわけだが、テンションだけ、ちょこっとだけ意識してみたりしている。(ちなみに評判は良かった)

私とペルソナと川上洋平さん?

先の話に戻そう。占い師の言う『ペルソナのあなたも自分である』というのは、日常にある自分とは当然大きく違うものの、けして別物ではないんだからねってことを指すのならば。配信者である私の要素と、そして洋平さんの魅せる要素がミジンコ程度にはあるって解釈してもいいのだろうか笑。

まぁ洋平さんは置いといて、配信者と素の自分は大抵、だいぶ異なるものだよね。
配信者としての私は、時と場合によって色んな自分を見せよう(思わずとして出ちゃうこともある)としてるのは間違いない。長くやっていれば、ライブ開始と同時に配信者の顔にシフトすることは自然と染みついている。
ただ、どんな私も、根っこにあるのはいつだって、『人のためになっていたい』(そこまでの聖人君子ではけしてないが)なのは事実です。

米津玄師さんからの『警鐘』

何のインタビューだったか覚えていないが、ラジオかインスタライブだったかもしれない。
米津さんが“推し”というものについて概ね次のように語っていた。『今は推し活とかってものが流行っているけれど、ひとりの人間を消費コンテンツみたいに扱う風潮ってのが、あまり好きじゃない』

初投稿に書いたとおり、私は配信者として迷い子であるので、この話にはますます共感するこの頃だ。

私は私だ。私の人生、負けだのなんだの思ったことがない。自分にとってものすごく高いハードルを一度でも乗り換えれば、嫌でもそうなる。
だけど、配信者の私(ペルソナの私だ)が住む世界には現実とは別のルール(例えばフォロワー数だ)があって、そのルールでしか通用しない。他人から勝手に勝敗を分けられるし、比較されている空気だけはビシビシ意識せざるを得ない。比較する者が大勢集まってるような世界だからだ。

先の言葉を思い出そう。人間は消費コンテンツじゃないから本来、推しも何も無い。推しって言葉は人の好き嫌いを口にするとき、罪悪感を軽くする。例えば「推しやめた」とかって、深く人を傷つける行為なのに、簡単に言えてしまうし、いつしか言われる側も人間関係というものを軽率に扱うようになる。(配信界隈が及ぼす一番嫌なところだ)

現実を良く活かそう

要するに、配信界や趣味の世界において、たとえ誰かに下げられようとも悲観する必要はない。ペルソナも現実のあなたもあなたの実力で在るのだから。
チェス盤をひっくり返そう。
悪く生きても、それだって現実のあなたそのものってことだ。ヒール役なんて、言い訳でしかない。
ペルソナの生き方は現実のあなたの生き方でもあるってことだ。
どんなあなたでも、人と向き合う時には慎重に。ネットの向こうにも、消費の対象にはならない人間がいる。(#2 End.Thank You! SeeYou!)


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