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別腹 いつかの上丼の穴子


外で天ぷらを食べ始めた頃は、穴子は最後に腹を一杯にするための種だと侮っていた。若過ぎて、胃も健康過ぎた頃の話だ。すき焼きやしゃぶしゃぶの肉一人前の分量にも、すごい不満を抱いていた。あんなおかわり前提の量を出すなんて、一種の詐欺ではないか。
もちろん、詐欺ではなかった。年配が多い客層に合わせていたのだ。いまではぼくも一人前で十分だし、脂身の多い上肉は一枚で舌が飽きるので、連れがいるときは上と並を頼んだりする。

穴子(本文とは直接、関係ありません)


穴子の話だった。
しばらくして、住んでいた実家から遠くない場所にある店を見つけた。クルマを走らせていたら、店の前に行列ができていた。
商店街のはずれに当たるところ、大通りに面した木造二階建てのしもたやに、大きな看板がぶらさがっていた。「天安」とあった。
開店間際を狙って、すぐに訪れた。ごま油の匂いが染みついた店は、ごま油の匂いが似合う家族で営まれていた。いかにも下町であり、江戸府内の風情があった。「本郷もかねやすまでは江戸のうち」と、小学校で配布された文京区の読本には書いてあった。かねやすは呉服屋の名前だ。店は白山なので、江戸のうちではなかったが、江戸の庶民が吸っていたであろう空気が漂っていた。
油染みだらけの白い上っ張りを着た、四角いからだの上に四角い仏頂面を載っけた店主が、揚げ場に立っていた。
品書きは、天丼と天ぷら。それぞれに上と並がある。まわりの客がみな頼む「上丼」を、ぼくも真似して注文した。
濃い紅茶色をした油で満たされた鉄鍋のなかに、無造作に種が投げ入れられていく。頃合いを見てさっと掬い取り、油切りの器に並べていく。
無駄のない店主の所作にも痺れたが、それ以上に、艶のあるバリトンの声に痺れた。無駄口も叩かないので、配膳の指示のときだ。
「はい、上丼。揚がります」
店主の母親らしいお婆さんが、羽釜で炊かれたごはんを盛った丼を差し出す。丼だれに漬け込まれ、じゅっ、と音を立てた種が載せられていく。
出てきた上丼の上では、海老とかき揚げが狭苦しそうに重なり、さらに丼からはみ出しまくった穴子が、只事ではない存在感を放っていた。いまでこそ、わざとらしく器からはみ出させた種を売りにする料理がSNSを賑わしているが、当時はそんなものはまったく注目されていなかった。
大きいだけでなく、穴子は身が厚かった。かぶりつくと、ごま油と厚めの衣が活きる、しっかりと味蕾を開かせる魚の味がした。
素直にうまいと感嘆し、脱帽し、平伏した。穴子を舐めていたことを恥じた。ここの穴子は舐めるものではなく、齧りつくものだった。
穴子は、腹を埋めるために出てくるわけではないのだ。もちろん、腹も埋まったのだが。
ちなみに、「並」の丼だと、穴子はつかず、かわりに鱚がついた。ときおりだが、「上丼は品切れです」と言われることがあった。そんなとき、仕方なく並丼を食べたのだ。ところが、店主のそばに置かれた種を並べた器のなかには、穴子が何匹かくにゃりと横たわっていた。あるじゃないか、と思うが、首を傾げるだけで、口には出さなかったが。丼ではなく、定食の「上」のために、取っておいたのかもしれない。
ある日、裏技を知った。「品切れ」と言われ素直に並丼を頼んだぼくの隣に、あとからやってきて座った江戸の長屋の住人然とした初老のひとが、こう注文したのだ。
「並丼に穴子つけて」
それなりに通って常連気分になっていたぼくは、唖然とし、愕然とし、呆然とした。店主は四角い顔のまま「はい」と答えた。
次はぼくもと心に誓ったが、ぼくがその注文をすることはなかった。速い時間に行くせいかいつも上丼はあったし、そのうちにぼくは実家を出て、文京区からは離れた世田谷区の住人になってしまい、この店に行くことも滅多になくなってしまったからだ。
天ぷら自体は食べつづけた。コースの最後に出てくる穴子は、ぼくの愉しみに変わった。天ぷら屋の評価は、最初に出てくる海老で決まるという風潮があったが、ぼくはむしろ穴子の質で判断するようにさえなっていた。これはこれでどうかと思うが、仕方がない。
海老については、揚げる前に、おが屑のなかで跳ねる活き車海老を見せられて(たまにそのまま床に落ちる海老もいた)、感心した振りをしつつ、なんだかなあと思っていた。甘みを引き出すために芯をレアに揚げられた手一束の車海老は、たしかにおいしかった。だが同時に無駄な高級化路線にも思えた。前にも書いたが、ぼくはちんけな金銭感覚の持ち主なのだ。

穴子ちらし丼(本文とは直接、関係ありません)


穴子の話だった。
それから幾星霜。せっかく好きになった穴子が、負担に感じられる日が来てしまった。
いつもではない。体調によるのだが、すき焼きで肉のお代わりをしなくなったというか、外であまりすき焼きを食べなくなったあたりから、締めの穴子に辿り着く前に、腹一杯になってしまうようになった。
つい先日は、同時にスタートした隣の客に主人が「次でひと通りで、お食事となります」と告げるのを聞きほっとしたら、そこから穴子までにあとふた品出てきて、閉口しかける口をこじ開けて気合いで胃に押し込んだ。隣の客は刺身のついたコースで、ぼくは天ぷらのみのかわりに品数の多いコースを頼んでいたのだった。穴子に申し訳ない。
ぼくも歳を取った。「天安」もすでに閉店して、二十年になる。
この文を書こう思い立ち、少し検索をかけた。何人かのひとが思い出を語っていた。それによると、食に詳しい文筆家が、江戸川橋にある天ぷら屋の天丼が似ていると言っているとのことだった。
江戸川橋も実家から近いので、昔からその天ぷら屋は知っていた。世田谷区に越したあと、今度は豊島区に越してから、たまに通うようになった。
夜はコースをいただくが、昼の天丼も食べている。特製天丼ほか三種類の天丼がある。油や丼ツユの濃さが似てはいるが、ぼくはここで「天安」を思い出したことはない。奥さんの卒のない行き届いた接客は下町風ではないし、ご主人も夜の手が空いたときには話し相手になってくれるし、声も高い。味は口のなかだけで醸されるわけではない。店主や奥さんのキャラクターも、味のうちだ。江戸の下町というより、ここには昭和の駅前の空気感が漂い、味わいにも影響している。
特製天丼には海老二尾、小海老のかき揚げに椎茸の海老詰めがつき、海老推しである。せっかくの大振りな穴子はふたつに切られていることもあって、やや主張を弱めている。これもふたつの天丼に、ぼくのなかで線を引いている。
こちらはこちらで、ときおり食べたくなるし、おすすめの天丼を尋ねられたら(二度そんなことがあった)、ここを教えるが。

江戸川橋の特製天丼。
はみ出しを嫌う老舗の矜持か、穴子は切ってある。


対極といっていいほど味は違うのだが、天丼の穴子でいまぼくがいいなと思っているのは、阿佐ヶ谷の駅から離れた路地にある店(天ぷら専門店ではなく、夜は日本料理屋)だ。大ぶりの穴子が売りで、一度など、「今日の穴子はやや小ぶりだったので」と、通常は一尾の海老を二尾つけてくれた。ぼくの老眼には、まったく小ぶりには見えなかったのだが。郊外のちょっとよそゆきだった店が、時代の波を被りながら生み出した天丼は、誠実な職人仕事を噛みしめる一杯に仕上がっている。

海老二尾のときの阿佐ヶ谷の天丼。
本日、穴子は小ぶり(店評価)。


思い出の味を、ときおり脳内の胃袋で反芻するのはいい。長生きしたご褒美だ。だが失われたものは帰らない。江戸川橋や阿佐ヶ谷にいま現在ある天丼を大切にして、おいしい穴子の味を脳内の胃袋に上書きしていきたい。

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