病気や災難とのつきあい方/まったく別次元の考え
5月になりました(*´ ˘ `*)
雨降る朝…この雨が、新緑の季節の緑を潤してくれるのですね。私はもう潤されそう…傘持たないでカフェに来たから、雨を浴びて帰ります(笑)
どこかの水が雨になるのだから、もしかしたら遠い国で働く大切な人が額に汗して働いた水かもしれないし、うっかりこぼしたコーラが私を濡らしているのかもしれない?(⊙⊙)
きっと、誰かの嬉しい涙も悲しい涙も、雨の中に溶け込んでいる。私はすべてを抱きしめて、オンボロ自転車をキコキコと、帰るのでしょう…
まったく次元の違う価値観
小林正観さんの『人生は4つの「おつきあい」』を読んでいました。私ははじめて知ったのですが、それは正観さんも仰るとおり、「まったく次元の違う考え方」だったのです。
普通、私たちは病気や災難を忌むべきもの、不幸なもの、治すべきもの、避けるべきもの、そう考えますよね。
1月1日に天皇伊勢神宮で「四方拝」という儀式を行われますが、そこで天皇はこのように祈られるのだそうです。
「今年1年、日本に災いが起こるのならば、まずは自分の体を通してからにしてください」
そこには、病気や災難を受け入れるどころか、大切な国民に病や災難が起こるのなら私に肩代わりをさせてくださいという、まったく別次元の価値観がありました。
私の周囲にも重い病や災難にあわれた方たちがいます。その方たちが肩代わりになってくれたから、私や、周囲の人は元気でいられるのではないか…
私も難病とともに生きていますが、あと1分遅ければ脳に障害が出ていたというときがありました。結果として今なんの障害もなく、このように文章を書けています。父は脳出血により半身が麻痺をして、あまり動くことができなくなったのですが、もしかしたら父が私の肩代わりをしてくれたのかもしれません。
弟は知的障害があり、彼自身も両親も大変な苦労をしてきたのですが、弟が肩代わりをしてくれたから、病気や経済的に苦しい思いをかなりしてきた我が家も、もっと酷いことが起こらないで済んだのかもしれません。母も85%助からない自体でしたが回復しました。病院に肩代わりをして亡くなっていかれた方がいるのかも…病院で会うたくさんの患者たちは、多くの人たちの病気や災難を肩代わりしてくれているのかもなど、本を読んで、そのようなことを考えています。
病気や災難、障害に対して、まったく別の見方ができるようになったのです。
多くのものを背負える人たち
正観さんは被災した方たちにこのようにお話をされたそうです。
会社や社会で鬱などの病気になったり、問題とされことをする人は、ダメだったり罰せられるべき…本当にそうでしょうか。
もしかしたら、私たちの肩代わりをしてくれているのかもしれませんし、社会や仕事というものの在り方、男として女としてなどの概念とか、たくさんの私たちを苦しめているところを身をもって伝えてくれているのかもしれません。
手を差し伸べる機会があったなら、それは助けてあげるとか治してあげるということではなく、肩代わりになってくださった方に、深い理解を与えてくださった方に、手を差し伸べる機会をいただけている…
それはありがたいことなのかもしれません。
本当に病気を受け入れるとは
私は長く患うなかで、いつ死んでもよいと思うようになりました。生きようが死のうがかまわない、いつでも死ねるという思いが、今日1日私を生かしたのです。
ですが正観さんに言わせれば、病気を忌むべきものと思うことはあたり前として、いつ死んでもいいというのも病気を受け入れていないことになります。
そこには「自分のため」という思いが残っているからです。
とても私には天皇のようには祈れませんが…大切な人はいて、その人たちのためなら自分の病が重くなってもいい、死んでもいい、その人たちの災いの肩代わりをさせてくださいと、心から願えるだろうか…
今まで、私ももしかしたら大切な人の病を一部でも肩代わりできていたかな、それならよいな…
そんなことを思う5月の朝です(*´ `*)
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