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人生って痛い?人生ってなんでドタバタ劇なの?/この世の生をめいっぱい生きるのだ😊

昨夜映画を見ていたら地震…木造のアパートで経験するはじめての地震。地球が身震いしているのかな、なんて思いながら木造建築の揺れを感じていたよ。


眠って、大変なことは起こらないで朝を迎えることができた!今日も一日、私という作品をつくるチャンスが与えられたのだ~ヾ(*´∀`*)ノ


ということで、今回は前回に引き続き調布市の仙川という街を散歩したお話を書くね。前回の記事はこちら…よかったら、覗いてみてね♪









ミーはおフランス?な猿田彦珈琲


街を散歩してお昼もすぎたころ、ひと休みと涼を求めて猿田彦珈琲アトリエ仙川に…椿屋珈琲か星野珈琲にするつもりだったけど、予想外の猿田彦さんへ。


チェーン店だけど私は入るのははじめてなんだ。ワクワク…暑い日だったから「水出しのお紅茶」を頼んだよ。…ん?“お”紅茶?あまり聞かないお店での商品名。店内には猿田彦珈琲のベーカリーブランド、オキーニョのパンも売られていて、よく見ると「ミルクフランス」だって🥖



なんでそうなのかわからないけれど、おフランスなんていうとバカボンのイヤミを思い出しちゃうよ(´∀`*)ウフフ


「ミーはおフランス帰りざんす~」



平日の朝だったので、街は通学や出勤の人、遊びに来た人でいっぱい。太陽がわんわんと元気になるお昼、街はランチでまたにぎわっていて、でも私が降り立った猿田彦珈琲という星はお客がたくさんいても穏やかでくつろいでいたよ。華やかなところですごす人たちと、公園の木陰でのんびりと風に吹かれている人たち…


窓の外には『華麗なるギャッツビー』の若い男女がミントジュレップを飲みながらボート遊びをしているところでも見えてきそう。冷たいお紅茶で喉を潤しながら、そんな空想をして遊んでしまう(*^^*)





永久の未完成これ完成である


遊んだ次の日、仙川や猿田彦珈琲について教えてくれた人がいるのだけど、仙川ってコーヒーショップの激戦区で、猿田彦珈琲のオーナーの出身地なんだって。


仙川の街を歩いてみると、崩れそうなお店や閉店したお店もけっこうあって、その中にガラス張りのオシャレな猿田彦珈琲のようなお店もあって、街が変化してまだまだ過渡期、成熟していないんだななんて言ってたの。そうしたら、それ、まんま自分のことだねって返されちゃったwww


うん、世界のすべては、目に映るすべては、みんな自分自身だから。そんなこと前にもnoteに書いたっけ。いつまでも成熟しないんだ。「成熟、それすなわち死である」って誰の言葉だったかなぁ…ジャン・コクトーだったかしら。あ、フランス人だ🌹


「永久の未完成これ完成である」というのはね、宮沢賢治が思想の集大成として書き残している『農民芸術概論綱要』の最後に結論づけている言葉だよ。


永久の未完成が完成、どういう意味だと思う?





小さな幸せって退屈が大好きってことだね


ブログとか見ていても、ささやかな幸せを書いた言葉をよく見るけれど、そうだね、幸せはささやかなのがいいね。だって不幸はいつだってガツンと来る。ささやかになんてやって来ないでしょう?


ささやかな幸せ…風に吹かれても、リンゴを齧っても、あなたを何気なく見つめても幸せ。見ること聞くこと、そんな感じることのあたりまえのすべてが嬉しくて、ものすごく恩寵なんだって思えるときがあるぐらい、そんな小さな幸せに見えるものたち。


ささやかな幸せは、だから平凡な幸せ。平凡な幸せは長続きする幸せ。ようするに退屈ってことだよね。退屈が幸せなんだ。


だけど人は暇が一番つらかったりもするから、刺激を求めてしまこともある。刺激ばかり求めている人もいる。ぬるま湯の幸せなんか嫌なんだってばかりに…笑


馬鹿にするつもりなんてなくて、刺激を求めるって気持ちわかるんだ。今の不安や怖さから逃れたくて刺激を求めてしまう。習慣のようにしてしまう。そんな自分、今でもいるんだよ…




人生はドタバタ劇

新作楽しみ♡


ささやかじゃない不幸、いろいろ体験するよね。暴力、差別、いじめ、嫌がらせ、力による支配的なすべてのこと、偏見、レッテル張り、ネット被害、バッシング、病気や事故、災害、経済的な貧しさや仕事の困難…


トラブルと感じることを経験するのだけど、なかなか納得されないだろうけれど、すごく俯瞰して見れば苦しみや痛みを感じるのは私たちがそれを楽しんでいるからなんだね。昨夜見ていた『マッドマックス 怒りのデスロード』でフュリオサが「人生は痛いのよ」って言うけれど、人生が痛いから映画って楽しい。


だって何の問題も起こらない平和で天国みたいな世界で、登場人物みんなが理解や愛にあふれ、問題を問題と思わない鋭い認識力をもっている悟ったような人ばかりだったら、そんなの映画にする必要ないもの、誰が見るのだろう?


人は退屈するぐらいなら苦しいことでも何か起こって欲しい。苦しいことを経験するから小さなことに幸せを感じたりもするし、苦しみ自体が目覚めのきっかけのなることって多いからね。


人生ってコトバで論ずるものじゃなくて、生身で生きることそのものだから、人生が何かなんて一言で言えないけれど、人生はゲームみたいものと言うこともできるよ。


映画なら、ゲームなら、痛いことが起こって、泣いたり笑ったり怒ったりめいっぱいして…その方が楽しいと思うの。




この世の生を精一杯に生きること


自然災害、事故や病気、核…それだけではなく、いつ起こってもおかしくない宇宙からの天体衝突とか、あげればきりがないものにさらされながら、私たちの日常はあるよね。


あたりまえに感じる今が本当に有難いんだね…


ドトールの隣でパパが抱っこした赤ちゃんがパンをちぎって遊んでる、この瞬間がどれほど奇跡か。私の人生、私の肉体、私の仕事とかお金とか、そんなものは本当はなくて、私たちはひとつのイノチにすぎなくて。


銀河鉄道の旅のように、人生と呼ぶものもはじまりも終わりもなく続き、これで完成したなんて瞬間は訪れないながら、それでいてなんの間違いもない完璧なひとつのイノチ。


だから、すべては私たちそれぞれの思いと行動にかかっている。私のなかにすべてがあるから。すべてはひとつだから。


目の前に宇宙すべての奇跡があらわれいる、目の前の現実を、この世の生を精一杯生きる。いつもできるわけじゃない、すぐに眠りこけた人になってしまう。刺激を求めてしまう。だから自分の過信なんてできないし、覚悟が足らないと言われたらそうだし。


ダメな自分でも、小さな小さな一歩でいいよね。


怒りのデスロードには、人間の問題はただひとつ、愛の欠落だということちゃんと描かれていたよ。映画だって人間の意識進化のためにつくられることがある。監督がそれを意図していなかったとしても…


足は大地に、理想は高く、心には愛を。




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