見返すのが、どれだけ大事かって話。
私はシャイなあんちきしょう。
どれほどあんちきしょうかというと、自分が書いた文章を見返すのも恥ずかしいほどにあんちきしょうです。
初めての経験
中学生の頃、よく小説まがいの文章を書いていたと前に言いました。その時は、自分の妄想を形にする「ただの自己満」でしかなく、書いたらそれっきり。見返すことはありませんでした。
しかし、お仕事として文章を書くようになってから、納品する前に自分の文章を見返すようになりました。そこで私は驚きます。
「あれ、私ってこんな文章書くんだ?!」
って。
元々参考にしていた文の書き方があって、それに忠実とまでいかないまでも、できるだけ寄せた書き方をしているつもりでした。
あくまで「つもり」です。
模倣をすればいい話なのですが、お仕事ではあるものの、物書きである以上、創作物には、完璧な模倣よりも、ある程度個性のある「つもり」が必要だと感じています。必要だからといって故意に出せるものではなく、出てしまうものですが。
でも、お仕事を通して、自分が書いた文章を見返す機会ができ、その「つもり」が悪い意味での「つもり」だということに気づきます。
さっきの驚きも嬉しい驚きというよりは、悲しい驚きでした。
誤字脱字はもちろんのこと、自分の頭の中では繋がりがある前後の文も、見返したら、繋がりが感じられず、内容があちこちに散乱しているように読めてしまったり、書いてる最中は感情的になれた部分でも、感情的になれなかったりと、気づくわけです。
「私は見返さないといい文章を書くことができないんだ・・・。」
文章を書く人が一般的にどうとか、そういう「周りと比べて〜。」という話ではありません。
私にはあると思っていた、「一度でイメージ通りの文を書く」という文才はないのだと実感した瞬間です。
そして自分が比較的に平凡な文才を持った人間だと思うようになった瞬間でもありました。
ところで平凡な私よ
下を向いている暇はあるのか?
「ハイキュー!!」というバレー漫画に出てくる、平凡な先輩、田中龍之介の偉大な言葉です。
私はこの時、諦めるわけにはいきませんでした。仕事を放棄するのはもちろんのこと、自分の目標のためには、こうして物書きを続けなくてはいけなかった。
元々、失敗に対する精神が形成されており、「どんな失敗も経験にしてやる」という気持ちがあったのが不幸中の幸いでした。そこからは見返すことで、平凡な文才を持った自分と向き合うことにしたのです。
向き合うようになってから、それまでの文章とは比べ物にならないくらい質が上がった気がします。というか見返して不自然な部分がなくなりました。(直してるんだからそりゃそうだ。)
こうして、「見返すことって大事なんだな」と、学びを得たわけです。元々、小説を読む時も、全てを読もうとせず、セリフの部分だけを読んでいた私。そういったせっかちな性格が文章にも出ていたんでしょうね。
こうして見返すようになったのですが、
まあ、めんどくさい!
今まで、書いて終わりだったために、見返さなきゃいけないっていうのが、かなりめんどくさい!
このめんどくさいけどやらなくてはいけない、仕事みたいな作業はいまだに慣れず、今後も慣れることはないでしょう。
誰か代わりにやってもらいたいものです。
でも、そこも自分でやるからこそ、自分の個性が120パーセント文章に反映されると思ってもいるので、やるべきだと感じています。
なんというジレンマ…。
今のところ、この記事をのぞいて2つほど、記事を公開していますが、それはどちらとも、見返さずにそのまま投稿したものです。
この記事を書く前に少し読んでみたのですが、まあ酷かった。
だからここで今一度、
この記事を境に、noteで公開する記事もしっかり見返すようにしたいと思います。
ってことを宣言します。
わざわざ太文字にするほどのことではないんですが、ノリでしてみました。
あとは、構成。
noteでいうところの大見出し、小見出し。これをあらかじめ決め、どういったものを書くのかを具体的にイメージしておくのも大事です。
これもお仕事を通じて、痛感しました。この記事はだいぶ適当なので、構成に関しては次回からの記事でしっかりと組めてきたらと思います。
今日はこの辺で。
今回もご愛読ありがとうございました!
サンヅ先生の次回作にご期待ください!
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それでは。